天正元年(1572) 二月二十四日 越前国 敦賀郡 敦賀
「何? 権中納言様が敦賀にお越しになっていると?」
長政は仰天した。
越前の統治においては前波吉継をはじめとした朝倉旧臣が行ってはいたが、三国浦をあらたな領地とした長政は、小谷城に帰ることもなく、若狭と越前を行き来していたのだ。
ちょうど敦賀にいたのが幸いした。
(しかしなぜだ? なぜ敦賀に? まさか私に会いに来たわけではあるまい。義兄上に会うのなら、京の治部大丞殿を通じて先触れがあるはずだ。どこにいく? 北か? 加賀、能登、まさか越後か?)
「初めてご尊顔を拝しまする、浅井備前守にございます」
「ああ、これはこれは備前守殿、お目にかかるのは初めてですね」
「権中納言様(純正)が敦賀にお越しになったと聞き、急ぎまかり越しました。先触れ(連絡)をいただければお迎えにあがりましたのに」
長政の処世術であろうか、それとも戦国の礼儀か、はたまた考え方によっては当然なのか、長政は下から目線で話し始めた。
信長とは対等な同盟とはいっても国力の差は歴然であるし、義兄でもある。
そしてその義兄と同盟を結んでいる純正であるが、もはや同盟など必要ないのではないか? と思えるほどの国力を有している。
長政は備前守だがいわゆる通称であり、信長や純正のように朝廷から正式に任じられた訳ではない。
「ああ。なに、お忍びの旅にござるよ……とでも言っておきますかな。ははは。肥前の田舎豪族だった頃は、自ら出向いて何でもやっておりましたが、近ごろは動かずとも向こうから来るようになってしまって」
自慢とも自虐ともとれる事を言いながら苦笑いする純正であったが、長政にしてみれば信じられる訳がない。
もちろん純正も物見遊山で北陸まで来てはいない。
能登畠山家の内情と当主義慶の器量を見るためなのだ。そして加賀、越中を緩衝地帯として、信長の北上と上杉の南下を抑えて拮抗状態をつくらなければならない。
希代の軍略家と言われる謙信であるから、史実通りにいけば越中と能登を領土にして、五年後に手取川で織田軍と激突する。
大義名分で動くと言われる『義』の謙信ではあるが、上洛を要請してきた足利義昭はすでに京都から逃亡して、所在すらつかめていない。
そうなると、これ以上の南下は大義がない。
いや、もしや追放された(事実上)義昭がまだ健在で、どこからか御内書を送り続けているかもしれない。
いずれにしても、幕府を静謐の要としていた信長が義昭と対立した。
共通の敵であった武田も、信玄が家督を勝頼に譲り隠居した事で、織田と和睦したのだ。
謙信としては信長と協調路線をとる意義がない。
仮に京都に義昭がいなくても、征夷大将軍を解任された訳ではない。存命であれば御内書は生きている。謙信が言う大義が成立するのだ。
しかし純正は結果的に信長と路線を同じくし、表だっては動いてはいないものの、反義昭側に組み込まれていた。反幕府ではない。反義昭である。
そういった理由もあり、反信長(=純正)勢力再興の起爆剤となりうる謙信の上洛路の喉元に、楔を打っておきたかったのだ。
「ははははは。戯れ言を仰せになっても、この備前守答えに困りまする。中納言様の本心をお聞かせ願いたく存じます。あわせて中納言様におかれては、この備前守にはお気を楽にお話しくだされ」
「……」
……。
「では……。それがし、軍は厭う(嫌)のだ。能うならば領国に帰って|政《まつりごと》(行政・内政)や商いをする方が性に合っておる。然りながら、世がそれを許さぬようで……もう、良いか……能登に参る」
「! ……能登にござるか? なにゆえに? まさか?」
「然にあらず、然にあらず。大事な事ゆえ二度言うたが、兵部卿殿(信長)に他意はない。天下静謐のため、それともう一つ交易のためじゃ」
長政はしばらく固まって純正の言葉を頭の中で巡らせ考えていたが、やがて口を開いた。
「天下静謐とは、これいかに?」
「兵部卿殿は天下の静謐のために公方様を奉戴し上洛せしめた。その後万事うまく事が運ぶかと思いきや、公方様の専横にて不和となり、しまいには公方様は兵を起こして兵部卿殿に軍を挑んだ」
「そう、聞き及んでおります」
「その軍の果てに、自ら京を出たとはいえ、公方様を遣らう(追放する)事となってしまった。では誰が天下を差配いたすのであろうか? 誰もおらぬ。兵部卿殿は己が欲にて軍は起こさぬと仰せだが、謙信もそれは同じ」
「あ!」
「ゆえに、加賀越中にて新たなる権威を打ち立て、その権威を用いて謙信の上洛を防がなければならなぬ。あわせて、先ほども言うたが、蝦夷地との交易の間の地でもある」
商人としての利益を考えれば、松前で購入した品を各地で売りさばいた方が利益になる。北前船は安い湊で買い、高い湊で売るを繰り返して莫大な富を築いたが、純正の目的は別にあった。
自らの領国に、蝦夷地の産物を畿内の商人のマージンを除くことで、安く大量に持ち込めることだ。それによって安価で高品質の物が手に入る。
安売りをする、という事ではない。利益がでるので適正価格で売れるという事だ。
神屋宗湛も島井宗室も仲屋乾通も、そして平戸道喜も、対外貿易、朝鮮・明・ポルトガル・東南アジアとの貿易を主としているから、アイヌ交易で損害はでない。
そしてこれは、畿内における価格破壊が可能という事を意味している。
松前藩から購入している商人より、小佐々の商人がアイヌから直接仕入れて、小浜や敦賀を経て京大坂へ売り出せば、マージンがない分安く売れるのだ。
販路さえ確保できれば総取りとなるだろう。浅井、織田にとっては死活問題ではあるが、長政にはそれを止める事もできなければ、止める名分もない。
「越中では一向一揆の勢い止まず、神保より謙信へ合力の願いがでておるし、能登は能登で現当主は若い。そして長対馬守続連と遊佐美作守続光、温井備中守景隆が権力争いをしつつ実権を握っている」
長政は真剣に純正の言葉を聞いている。いったいどこまで知っているのだ、この御仁は。
「そこでわれらが畠山と誼を通じ、能登越中の守護としての権威を再び起こせば、神保も椎名も越中の守護代であるから、その威をもって争いを止めさせれば良い。されば謙信の越中入りの大義は失われよう」
純正はそこで一旦話を止め、近習に持ってこさせた珈琲を飲む。宿の主人に湯を沸かさせたのだ。珈琲豆と現代でいうところのコーヒーメーカーは持参していた。
「中納言様、これは?」
長政はそう尋ねる。
「これは珈琲といって、南蛮のさらに西のイスラームから種を取り寄せたもので、煎って潰して、粉にして溶かして飲むのでござる。今年か来年くらいには、我が領国でも実がなるであろうと報せを受けておる」
「これが! このような飲み物の種が日ノ本で育つのですか? 初めて知り申した」
「ははは、つぶさに(正確に)言えば日ノ本ではない。南蛮には呂宋と言う国があり、その他にも様々な国がありて、土地を買うたりわが領民を住まわせておる。言うてみれば、半領国というところかの」
純正は笑いながら珈琲を飲む。飲み終わると、再び話し始める。
「ゆえに、兵部卿殿(信長)に仇なす行いではないのだ。交易のためと、これは兵部卿のためにもなるのだ」
「なるほど、左様にござりますか」
(得体が知れぬ。恐らくは嘘は言うてはおらぬのだろうが、然りとて全てが誠の事とも言い難い。西国に留まらず南蛮にも足を延ばし、足溜(根拠地)をつくりては、さらに蝦夷地まで……)
「この事、兵部卿殿に伝えるもよし、心の内に留めるもよし。ご随意にされよ」
■三河 設楽郡 某所
「それで、いかがいたすのじゃ」
「いかがいたすも何も、一度謀反しておるのじゃ。武田が負けている訳でもなし。ここで徳川に寝返る道理もない」
「然りとて、徳川殿は前と同じく本領を安堵していただけると、過日使者が参っては書状を置いていきおったぞ」
奥平定能(作手城)・奥平信光(名倉城)・奥平信昌(菱鹿野城)・菅沼定忠(田峰城)・菅沼正貞(長篠城)ら山家三方衆は岐路に立たされていた。
武田、徳川の両陣営から服属の誘いの応酬である。
「然もありなん。そのくらいせねば我らが戻るとは考えておらぬであろう。然りながら本領を安堵されたとはいえ、われらは冷や飯をくわされるのではないか? 裏切り者のそしりを受けることは必定」
田峰城主の菅沼定忠は、いまさら寝返ったところで得るものはないと主張している。
「左様、信玄公も一時は身罷られたと噂が飛び交ったが、間違いであった。家督を四郎殿に譲ったとは言え、健在にござる。さらにはこれまでと違うて、軍をして領国を得るのではなく、国を富ませて国を守ると仰せだ」
長篠城の菅沼正貞も、同意しつつ意見を述べる。
……。
「では各々方、三方衆はこれまで通り武田に与する事で、よろしいな」
定忠の声に全員がうなずく事で同意をしめし、家康にとってはかなり困難な状況が、今後しばらく続くことになったのであった。
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