第196話 『一触即発、大村藩改易か?』

 安政二年十二月二十五日(1856/2/1) 江戸城 老中御用部屋

「本音が、でたな」

 堀田正篤まさひろの言葉に次郎は心の中で深呼吸をする。表情を崩さぬよう注意しながら視線を合わせると、正篤は手にしていた扇子を膝の上に置き、じっと次郎を観察した。

 その眼には鋭い光が宿っている。

「太田和殿、実に率直な物言いである。然れど公儀の決定に異を唱えるとは不遜であるな。蝦夷地を如何いかに統べるかは、無論松前や、よしんば大村の家中の利を考えての事ではない。この国の安寧を考えて決めたものだ。そこを如何に心得ておるのだ?」

 次郎は心を落ち着かせようと努める。緊張で喉が渇くのを感じながらも、冷静さを保とうとする。重苦しい空気の中、言葉を選びながら口を開いた。

「御公儀の御慮りは重々承知しております。それ故箱館の奉行所に関しましては、もともと治めていた松前家中が差配いたす方が、諸事万端において最もよき結句となると考えた次第にございます」

 当初アメリカは松前を開港することを望んでいたのだ。しかし幕府は城下であることを理由に断り、代わりに箱館を開港することに決めた。

 その結果箱館が天領となって諸外国との交易が始まり、松前は箱館の繁栄に押されて衰退の一途を辿たどるのである。次郎の箱館奉行所松前藩運営の案は、蝦夷地の上知あげちを防ぐのと併せて、松前の衰退を防ぐ為のものでもあったのだ。

「それが不遜だと申しておる。箱館の開港は公儀がアメリカとの交渉で決めた事。いわば国としての決定なのだ。その箱館を統べるのが国でなく、一家中であって良いはずがないではないか。もしなんら不始末があったとき、如何いかがいたすのだ? 我らが知らぬ、後から聞いたでは通らぬぞ」

 中身はどうあれ、悔しいが、正篤が言うことは正論である。国同士が決めた事であり、長崎と同様に指揮系統が一本化していなければ、不測の事態に対処できない。

 中身がどうあれ、である。

 ここで、松前藩や大村藩の利害関係を述べたところで、それは国益に反する行いとなる。ここは、奉行所の運営権は幕府に委譲するより他ないかもしれない。

 交渉とは落とし所を探すこと、その落とし所をいかに有利にもっていくかなのだ。

 箱館の繁栄と松前の衰退は通商条約締結後、何年もたってからの事である。明日衰退する訳ではないから、後ほど善後策を勘解由や崇広と協議すればいい。そう次郎は考えた。

「仰せの通りでございます。わが家中と致しましても、国としての公儀の決定に異を唱えるつもりは毛頭ございません。然れど……」

「然れど、なんじゃ?」

「我が家中と松前の家中が共に普請しております弁天の台場と五稜郭はいかが相成りましょうや」

 正篤の表情が一瞬動いた。次郎の言葉が予想外の方向に話を向けたようだ。部屋の空気が微妙に変化し、緊張感が高まる。

「弁天台場と五稜郭か」

「はい。両家中で力を合わせて普請しておる台場ととりでにございます。必ずや箱館を守る備えとなるでしょう」

 正篤は膝の上の扇子を手に取り、ゆっくりと開閉させる。その仕草に、思案する様子が見て取れた。

「確かに、あれらは重き備えとなろうな」

 次郎は僅かな隙を逃すまいと、さらに話を進める。

「御公儀の御意向は重々承知しております。然れどこれらの備えを用いるには、普請に携わりし者どもの知見が欠かせないのではないでしょうか」

 正篤の目が鋭く光る。

「つまり、松前家中の関与を認めよ、と」

「いえ、そうではございません」

 次郎は即座に否定した。

「用いるはあくまで御公儀の管領の下にございますが、何卒このまま我らの差配の下、普請を続けさせていただきとう存じます」

「ふむ……。それは、貴殿等がそれを望むのなら、そのままでもよい」

 次郎は内心ホッとした。そんな馬鹿な事はないだろうが、幕府に管轄が移ったとたんに、予算不足を理由に工事の延期や中止が決まったら大変な事になる。

 すでに工期を決め、業者も決めて様々な人、物、金が動いているのだ。ここで中止となったなら、信用失墜もはなはだしい。

「加えて、奉行所が異国船の入船出船を管理したり、異国人の監視を目的とするならば、和親の条約に定めた通り五里(20km)四方のみ公儀の管轄となりましょう。それより外は、これまで通り松前家中の所領で問題ないと存じますが、如何にございましょうや」

 正篤は次郎の言葉を聞くと扇子を閉じ、静かに目を閉じた。部屋に重い沈黙が流れるが、次郎は息を潜めて正篤の反応を待つ。やがて正篤は目を開き、次郎をじっと見つめた。

「うべなるかな(なるほど)。五里四方の管轄とその外の領地の扱いか……。ふむ、ではそれはそれで良いとして、蝦夷地は如何いたす? 公儀は再び上知として、公儀が蝦夷地を統べ、北方の備えを整えるべきかと考えて居る。然れど無論、本来は斯様かようなこと貴殿に聞く事でもない。ゆえに通知いたすのみであるのだが、あえて聞こう」

「それにつきましては……お伺いしとうございます」

 次郎は慎重に、深呼吸をして、言葉尻をとられないようゆっくりと続けた。

「そもそも、蝦夷地は誰の所領にございましょうや」

 これが今回の本題であり、幕府に上知を断念させ、松前藩と大村藩が利益を享受するために必須の交渉内容なのである。




 正篤の表情に一瞬の動揺が走る。次郎の問いが、思わぬ要所を突いたようだ。部屋の空気が一変し、鋭い緊張が満ちていく。正篤は扇子を握り締め、その指先に力が入るのが見て取れる。

 次郎は息を潜め、正篤の反応を見守る。沈黙が二人の間に重くのしかかる中、正篤はゆっくりと口を開いた。
 
「蝦夷地の所領か。それは当然、公儀のものであろう」

 次郎は静かに首を横に振る。

「然に候わず」
 
 その言葉に正篤の目が鋭く光った。扇子の動きが止まる。
 
「今、何と申した?」
 
 次郎は深く息を吸い、覚悟を決めたように言葉を続けた。

「然に候わず、と申し上げました。蝦夷地は松前家中の所領にございます。蝦夷地は東照大権現様が御公儀を開かれるより前から、松前家中が統べていたのでございます。そして大権現様が御公儀を開くにあたり、公式に統べる事を認められたのでございます。これは間違いなく蝦夷地は松前家中が治むるべき証左にございます」
 
 正篤の仕草には、明らかな苛立ちが見て取れる。

「何を申すか。その証拠に公儀開闢かいびゃく以来数多の家中が改易となり、転封と減封を繰り返してきたではないか」

「仰せの通りにございます。然れど、それはそのとがを受けるに値する過ちを犯したからにございましょう。天明から寛政の御代に、確かに失政があったとは聞き及んでおります。然れどもその失政の責は、そのみぎり(時)の上知によって精算されたはずにございます。文政の砌に所領が戻ってからの方(今まで)、松前家中は北方の備えを行い、今日に至っております」

 次郎は立て板に水の如くさらさらと話す。

「然らば此度こたび、松前家中に何の咎がございましょうや。何の咎もなく上知を行えば、諸大名の不信を買い、かえって御公儀の威信を下げ、不信を募らせる事にもなりかねません」

 正篤の顔には明らかな苛立ちが浮かんでいた。次郎の言葉が、幕府の権威に触れる内容であったからだ。

「太田和殿。然様さような事、貴殿が案ずる事ではない」

 正篤の声は低く、しかし力強い。

「確かに貴殿の言うことも一理あろう。然れど、北方の備えは喫緊の課題である。公儀が直に統べねば、速やかに処す事能わぬのではないか」
 
 次郎は慎重に言葉を選びながら答える。

「ご心配はもっともにございます。然れど、松前家中は長年蝦夷地を治めてまいりました。その知見は北方の備えに必ず役立つものと存じます。また、これだけはやってはならぬ事さえ決めておけば、大きな問題にはならぬかと存じます」

「ふむ……あい分かった。おって沙汰いたすゆえ、別室にて控えておるがよい」

「はは」




「さて方々、先ほどは全く話に入ってはこなかったが、これまでの話の中で、何か思うところはあるだろうか?」

 正篤は阿部正弘をはじめ牧野忠雅・久世広周ひろちか・内藤信親ら他の老中の意見を聞いた。

 次郎が退室すると、部屋の空気が一変した。正篤は他の老中たちを見渡し、彼らの反応をうかがう。阿部正弘が最初に口を開いた。

「正に過激な物言い。然れど太田和殿の言葉には一理ありまする。如何に公儀の沙汰とは言え、何の咎もなく上知を行えば、水野殿の失政を繰り返す事にもなりかねませぬ。外様でなく譜代でさえああなのです。外様ならば如何なる仕儀とありなるやわかりませぬぞ」

 牧野忠雅は腕を組み、深く考え込んだ表情で発言する。

「然様。然れど言うがままに処すなど、公儀の沽券こけんに関わりまする」 

「諸大名の反応も気になるところです。不用意な上知は、確かに不信を招くかもしれません」

 久世広周は首を傾げながら意見を述べるが、具体案はない。内藤信親は静かに、しかし確固とした口調で話し始める。

「まったく、公儀が大名の顔色を窺わねばならぬとは、由々しき事態ではございませぬか。然れど一方で、異国船への対応を考えれば、彼の者の言い分ももっともである」

 正篤は各老中の意見に耳を傾けながら、扇子を開閉する。その仕草に思案の様子が見て取れた。

「方々、ここは名と実、本音と建て前を考えて処すのが良いかと思うが、いかに?」

「阿部殿、如何なる事かな?」

 阿部正弘の発言に正篤は即座に反応した。

「つまりは異国の脅威に備えねばならぬし、北方の備えも整えねばならぬ。金も人もいるが、公儀の威信は保たねばならぬ。ならばすべては公儀が命じ差配した事にして、その実松前と大村に任せ、ただし必ず報せを毎度送らせ、公儀の知らぬ事をなくす」

 要するに表面上は幕府が命じた事にして、松前と、結果的に大村もそれに従って行っている。こういう体裁にすれば幕府の体面も保てるというのだ。

「それはつまり、彼の者の言う事を呑むという事になりはしまいか?」

「然にあらず。事ここにいたっては蝦夷地が誰のものかなど、些末な事に他なりませぬ。要は如何に幕府の体裁を整えつつ、異国に備え国体を護持し安寧を保つか、にござる。そのためには、多少の譲歩は致し方ない。そうは思いませぬか?」

 正篤の問いに対して正弘が答えるが、それに対しては誰からも具体的な反対意見がでない。正篤はそれを聞いた後、じっくりと考え込んでいる。

「無論、奉行所は幕府の差配とし、その五里四方は蔵入地とします。そして蝦夷地の備えは松前と大村が行うとしても、その差配は公儀が行う。この一点さえ譲らねば、これまで通り公儀の差配のもと、二つの家中が蝦夷地の備えを行っている事に変わりはしませぬ」

 堀田正篤は熟考していたが、やがて口を開いた。

「あいわかった。此度の彼の者の不遜の言は不問といたし、阿部殿の仰せのように下知をくだす。……方々、それでよろしいかな?」




 この結論に不満がないわけではない。むしろ内容を見れば、次郎に押しきられた形にも見える。

 その次郎の発言に愕然がくぜんとした幕閣であったが、確かに上知を強行すれば諸大名の反発を買うことになる。転封するにしても、納得のいくものでなければ、同様である。

 これまで幕府の沙汰に黙って従ってきた大名であったが、次郎の行動は公然と反旗を翻したに等しい行為にも見えたのだ。極端に言えば、謀反の兆しありと捉えられてもおかしくないほど、幕閣の意識を揺り動かした。

 好意的ではない。しぶしぶながらの満場一致のもと、蝦夷地の今後が決まった。しかし、幕閣内での大村藩(松前藩)への不信感は拭い去りようがなかった。




 次回 第197話 (仮)『その後』

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