第489話 石山本願寺坊官下間頼廉、和睦条件の緩和に挑む。

緊迫の極東と、より東へ
石山本願寺坊官下間頼廉、和睦条件の緩和に挑む。

 元亀二年 十一月二十日

 中途半端な包囲網が信玄ありきで成立していたのだが、武田の撤退により事実上瓦解した。

 将軍義昭は殺害されるのを恐れて逃亡し、他の抵抗勢力も各個撃破され、残りは厳しい和睦の条件をのむべきか、という瀬戸際に立たされていたのだ。

 ■京都 大使館

「大使、石山本願寺坊官、|下間《しもつま》法橋様がお見えになっています」

「法橋? どちらの?」

 下間頼廉、頼龍ともに法橋なので確認したのだ。(史実での任官時期は不明)

「は、右兵衛尉様にございます」

「わかった。通して」

 やれやれ、と言った感じで返事をした純久は、目的のわかっている来訪者を応接室に迎え入れる。

「お忙しいところ、お目通り願い、|忝《かたじけな》く存じます。下間右兵衛尉にございます」

「小佐々治部少丞にございます。ささ、どうぞ」

 純久はそういって椅子に座ることを促す。

 頼廉は大使館の内装はもとより、見たこともない応接間の仕様に驚いていた。驚くというより面食らっていた、というのが正しい表現だろうか。

 純久は頼廉に、抹茶、ウーロン茶、珈琲、紅茶のうち好きな物を選ばせた。頼廉が抹茶を選んだのは言うまでもない。たてる抹茶ではなく、お湯に浸してのむ茶である。

 相手は敵である信長の盟友である小佐々家の重臣。

 めったな事はないと思ったが、毒など入っていないか、と考えたのだ。もっとも毒であれば何を飲んでも同じなのだが。

「さて、浄土真宗総本山、石山本願寺の坊官様がわざわざお越しになって、一体どのようなご用件でしょうか」

 純久は用件はわかっていたが、あえて聞いた。

「そのような事を。聞かれずともおわかりにございましょう。わが本願寺と織田との和睦、調停をお願いしたい」

 頼廉は率直に頭を下げた。

「はて、弾正忠様と……それに仇なした方々とは和議があいなり、和睦の運びとなるはずと伺っておりましたが」

「治部少丞どの……。それがし初めてお伺いいたしたが、そこまでご存じなら、和睦の条件もおわかりではありませんか?」

 頼廉は困った様な顔をして、純久に尋ねる。

「詳しくは存じませんが、おおよそは」

「それではおわかりでしょう? 一万四千貫もの銭を償いのために払うなど、聞いた事がありませぬ。さらに大坂退去などもっての他にございます。起請文は……これは、なんとかなりましょう」

 ははははは、と純久は笑った。

「何をおっしゃるかと思えば、一万四千貫など、出せば良いではありませんか。石山本願寺ほどの寺なら、二万、三万の銭くらいため込んでいるでしょう?」

 純久にとっては正直なところ、人ごとである。

 自身も浄土真宗の信徒ではあったが、純正と同じく宗教勢力が政治に介入するのを好まない。また、寄進名目で金銀財宝をため込んでいる事など、お見通しであった。

「それでは身も蓋もありませぬ。苦しいからこそ、ここに来たのです。なんとか、なりませぬか」

 頼廉はもちろん、それが可能だとわかっている。しかし本願寺は以前、五千貫の矢銭の要求にも応じているのだ。

 ただ、純久にそんな事は関係ない。二度も信長に戦いを挑んでいるのだ。負けている側の論理を通すのは至難の業である。

「良いですか。いずれにしても起請文は要りまする。そもそもなにゆえ、伊勢長島の宗徒が兵を起こしたのですか? 為政者である弾正忠様が軍役や賦役、一揆を起こさねばならぬほどの苛政を敷いたのですか?」

「それは……」

「加賀越中の一揆も同じにござる。越後の不識庵殿を越中に抑えこみ、武田の西上を助けんが為だったのではありませぬか? 弾正忠様を囲いし敵の動きを、誰が如何様にしてなど、興(興味)もわきませぬが、およそ仏門の方々の為さる事ではございませぬ」

 近現代における暴動、クーデターは武力によって政権を転覆させるのが目的だが、それには順序がある。決して肯定するわけではないが、言論によって意見が通らない場合に実力行使にでるのだ。

「……」

 事実なのだろう。頼廉は反論しない。

「弾正忠様お一人に、織田家に恨みがあっての一揆にござるか? それがしにはそうは思えませぬ。もしそうでないならば……ただ己が欲の為に信徒を動かしたならば、それこそ弾正忠様が忌み嫌う事にござる」

 頼廉はぐうの音もでない。しかし、沈黙がしばらくの間二人を包んだ後、話し始めた。

「……。それでは申し上げますが、治部少丞殿は今の暮らしを捨てること能いますか? このような立派な屋敷に従者を何人も従え、奥方にご家族に、何不自由なくお暮らしのようにございますが……」

 ……?

 純久には頼廉の言っている事が理解できない。

「信な……、織田殿はわれらの暮らしを奪おうとしているのです。一万四千貫の銭もでござるが、大坂から出て行けなどと無理難題でございます」

 頼廉は大坂退去や賠償金の事を言っているのだろう。それが自分たちの生活を脅かす、と。

「それと、それがしの暮らしに何のつながりがあるのでござるか? 無論、理に適わぬ事で奪われるなど、断じて許しませぬ。家族を守るためなら死を賭してでも戦いましょう」

 当然である。まったく関係がない。それに対して、程度の差はあっても、本願寺が銭を奪われ大坂を追われるのは、理不尽な事ではない。

「寺にお住まいの僧侶の方々を養うのに、一万四千貫もの銭が要るのでござるか? 大坂を退いたとして、豪華な伽藍がなければ信徒を救うことができぬのですか? 親鸞様も御仏も、清貧の志で人々を救ってきたのではありませぬか?」

 純久は、武装解除も当然だ、と付け加えた。

「……! では! あの、長島での非道な行いはどうなのですか? あれは許される事なのですか?」

「無論、許される事ではありませぬ。然れど、ああせねばならぬ訳があったのです。逃せばまた|理《・》|不《・》|尽《・》|に《・》背き、同じように我らの同胞を殺すでしょう」

 自業自得だと純久は言いたかったのだ。宗教に携わる人間が、いたずらに欲を持って蓄財し、武装して政治に口を出すなど、本来の目的とは違ってくる。

 頼廉は一刻(2時間)ほど粘ったが、結局交渉は無駄足となった。

 小佐々にしては本願寺に肩入れしても得にはならないし、純正も純久も、宗教とは距離を置くというスタンスを崩していない。

 武装解除すらしない、金も払わない、退去もしない。

 考えてみれば、至極当然の結果であった。

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