第737話 『ウラジオストクにて、ヌルハチと』

 天正十六年八月二十九日(1587/10/1)~の1か月前 へトゥアラ

「なに? 肥前国の国王が海參崴かいわんわい(ウラジオストク)へ来ているだと?」

 海西女真との戦いを終えて、本拠地であるへトゥアラへ戻ってきたヌルハチは、斥候の報告を聞いて驚いた。

「ふむ……肥前王純正とは、やり手とは聞いていたが、南方だけでなく彼の地まで手を伸ばしてくるとは。これは、会わねばなるまい。ヤツらとは戦をしている訳ではないからな」

「……では?」

「うむ、遣いを送れ、いつ頃までいるかわからぬが、一月以内に行くと告げるのだ。待てば良し、待たねば我らをその程度と軽んじている証であろう」

「はは」

 建州女真を統一したヌルハチはその矛先を海西女真に向け、融和をはかる部族は積極的に併合し、抵抗するものは徹底的に戦ってはその領土を拡げていた。

『女真は一つにまとまらねばならない。そうでなければ、いつまでも明にいいように扱われるだけだ。我らはかつての渤海国、遼国、金国の末裔まつえいであるぞ』

 これがヌルハチの大義名分であったが、独立のために団結、という意味であろう。しかしその内実はわからない。




 ■天正十六年八月二十九日(1587/10/1)海參崴かいわんわい(ウラジオストク) 近郊 会談場所

 純正は一行を引き連れ、海參崴(ウラジオストク)近郊の指定された場所でヌルハチとの会談に臨んだ。周囲は警戒する者たちが配置されていたが、純正は堂々とした姿勢で会場へと足を運んだ。

 ヌルハチもまた、一族の精鋭たちを従え、豪壮な雰囲気を漂わせていた。彼の鋭い眼光が純正を見据える。

「はじめてお目にかかる。女真王、ヌルハチである。遠い肥前の地より、よくぞこの地までお越しいただいた、純正殿」

「こちらこそ、偉大なる王ヌルハチ殿にお目にかかれて光栄です。それがしの事は平九郎とお呼びください」

 それぞれの通訳が、それぞれに言葉を伝える。ヌルハチはまだ女真を統一はしていなかったが、あえて女真王という表現を使い、純正もまた、いみなである純正を避けた。

 そのまま関白殿下でも良かったのだろうが、仰仰しい。ヌルハチが『女真王ヌルハチ』と言っているのだから、純正も『肥前国王平九郎』としたのである。

「平九郎殿、遠路はるばるお越しになった理由を聞かせていただきたい」

 ヌルハチは静かに、しかし威厳のある声で切り出した。純正は真摯な眼差しでヌルハチを見据えた。

「ヌルハチ殿、某がこの地、北領掌(ウラジオストク)へ参りましたのは、参ったのではありませぬ。視察に来たのです。すなわち、すでにの地にはわが日ノ本の民が多く住み、生業を営んでおります。ゆえに此の地は、わが領土に他なりませぬ」

 通訳が、ここは海參崴かいわんわいではなく北領掌(ウラジオストク)と呼ばれている事、日本人が住み、すでに多くが生活を営んでいるために、日本の領土だということを伝えた。

 事実、永楽帝の時代には奴児干都指揮使司ぬるかんとしきししが設立され、東北地方を支配する機関として「奴児干都司ぬるかんとし」が設置された重要な要衝地であった。

 しかし時代は流れ、形骸化していたのだ。人口も減ってさびれた漁村になっており、それがために海參崴かいわんわい(「海辺の小さな村」の意)と呼ばれていた。

 ヌルハチの表情が一瞬固くなった。目に鋭い光が宿る。

「平九郎殿、その言葉の真意を問わせていただきたい。海參崴が貴国の領土だと?」

 純正は落ち着いた様子で答える。

「その通りでございます。我が国の民が多く住み、生業を営んでいる。それゆえ、此の地は我が国の領土であると考えております」

 ヌルハチはふぅぅっと深く息を吐いた。

「なるほど。だが、この地は古来より我ら女真の地でもある。明の永楽帝の時代には|奴児干都司《ぬるかんとし》が置かれていたことも承知しているが」

「おっしゃる通りです。然れど彼の者等はすでに、我らが与える生業にて日々の糧を得、暮らしているのです。その方が豊かに暮らせるからにございます。また、奴児干都司ぬるかんとしと仰せだが、確かに明の役人はおりました。挨拶はしましたが、いつのまにやら何処いずこかへいったのでしょうか。今はおりませぬ。女真の役人もおらず明の役人もおらず、此処ここを我らが土地と申し上げて、何の不都合がありましょうや」

 ヌルハチとしては、女真の統一を目の前にして、余計な敵は作りたくなかった。いずれは自らの敵となるであろう明と、日本は国交を断絶している。味方は多い方がいいのだ。

 いかに国益を損ねず友好を保つか……。
 
 ヌルハチは純正の言葉をじっくりと聞き、しばらく無言のまま考え込んだ。静寂が二人の間に流れたが、やがてヌルハチは重々しい声で発言した。

「なるほど、平九郎殿。貴殿の言い分には理がある。実際、我が女真もまた、明の影響力が薄れてからはこの地を直接統治することはなく、漁村としての存在がかろうじて残っているだけだ。それゆえ、此処を貴国の民が占めることも自然な流れかもしれぬ」

 純正は静かにうなずき、ヌルハチの言葉を待った。ヌルハチは再び考え込み、慎重な口調で語り続ける。

「だが、平九郎殿。この地を我が女真の民が無視してきたとはいえ、それを直ちに貴国の領土と認めることは、我らの誇りに関わる問題だ。此処は、女真の一部であり、その歴史は消えるものではない。我が民がこの地を離れていたからといって、それが即座に他国のものとなるわけではないのだ」

 純正はヌルハチの言葉を真摯に受け止め、その考えに理解を示すように言葉を返した。

「ヌルハチ殿、貴殿の誇りと女真の歴史に対する敬意、深く得心いたします。然りながら此の地が我が国の民によって栄え、その営みによって豊かさがもたらされている事の様(状況)を考えれば、これを無体とする(無視する)ことは能いませぬ。我が国は、ここを領土と認め、民を守る責を負っております」
 
 ヌルハチは純正の言葉を黙って聞き、鋭い眼差しで彼を見据えた。互いに譲れぬ立場があることは明らかだったが、純正はさらに続けた。

「ヌルハチ殿は何をもって領土と呼ぶのでござろうか。忌憚きたんのない考えをお伺いしたい」

 ヌルハチは純正の質問に対して深く考える。その表情には、この難しい問いに対する慎重さが表れていた。しばらくの沈黙の後、ヌルハチはゆっくりと口を開いた。
 
「平九郎殿、領土とは……」

 ヌルハチは言葉を選びながら話し始める。

「我々女真にとって、領土とは先祖から受け継いだ大地であり、我らの血と汗が染み込んだ土地のことだ。それは単なる絵図面の上の線引きではない。我らの文化、伝統、そして魂が宿る場所なのだ」
 
 ヌルハチは一瞬目を閉じ、再び純正を見つめた。

「うべなるかな(なるほど)。で、あるならば、なおさらにござろう。何故なにゆえここには百名にも満たぬ民しかいなかったのでござるか? しかも老人ばかりでござった。真に文化と伝統が宿り、血と汗がしみこんだ大切な地ならば、何故もっと人がおらぬのですか?」

 ヌルハチは純正の鋭い指摘に一瞬黙り込んだ。

 その言葉は痛いところを突かれたものだったが、ヌルハチは目を細め、しばらくの間考え込んだ後に口を開いた。

「平九郎殿、貴殿の指摘はもっともである。我が民がこの地を離れ、他の地に移り住んだことは否めぬ。だが、それは我らが決してこの地を捨てたという意味ではない。あくまで我が民が生き延びるために選んだ道に過ぎぬ。それでもなお、この地は我らが誇りを象徴する場所であり、いつの日か再び多くの民を迎え入れることを願っておるのだ」

 ははははは! と純正は高笑いをした。

「生き延びるために他の地へ移り住んだということは、此の地では生きていけぬという事ではございませぬか。誇りを象徴する地? では仮に、生きるために得るべきものが何もない此の地を、生きるために移り住んだ民の血をもって、外敵から守り抜くという気概はございますか?」

 ヌルハチは純正の高笑いに表情を崩さず、冷静にその挑発的な言葉を受け止めた。瞳は鋭さを増し、その内には静かな怒りが秘められていたが、冷静な態度を保ち続けた。

「平九郎殿、確かに此の地で生きることが困難だったからこそ、我が民は他の地を選んだ。しかしそれは、我らが誇りを捨てたという意味ではない。生き延びるために選んだ道もまた、我が民の智恵と勇気であり、この地への帰還を諦めたわけではないのだ」

 ヌルハチは言葉に力を込め、純正の目をまっすぐに見据えた。

「申し訳ない。仰っている意味がわからない。なぜ誇りの地を捨てたのですか? 加えて何故その捨てた地を守るのですか? 此の地への帰還? 何もないと捨てた貴殿等が戻ってくるのですか?」

 ヌルハチは純正の鋭い問いかけに、一瞬言葉を失った。純正の言葉は正論である。

「私が言いたいのは、我が民が戻りたいと願うとき、その道を閉ざすべきではないということだ。確かに、此の地には多くの困難があるだろう。しかし、それでも祖先の地に戻りたいと願う者がいるならば、その意思を尊重し、彼らが再び誇りを持って生きられるようにすることが、私の役目だと考えている」

 はははははは! とさらに純正は笑う。なぜ、交換条件やその他の交渉に進まず、捨てたこの地にこうも執着するのだろうか。純正には不思議でしょうがなかった。

 ヌルハチとは損得勘定ができない男なのだろうか?

「? 新しき地を選んだのが誇り? それで? 戻るのも誇り? 誇りを持って生きる? 意味がわかりませぬ」

 ヌルハチは純正の嘲笑と疑問の言葉に、再び内心を揺さぶられた。

 彼の言葉が純正にとって矛盾としか映っていないことが明らかであり、そしてそれが誇りを語る自身の考えが、論理的に破綻していることを示唆していることを痛感した。

 しかしここで引き下がるわけにはいかない。ヌルハチは純正に向き直った。

「平九郎殿、貴殿の指摘は鋭く、そしてもっともであると認めざるを得ません。私の言葉が、誇りという言葉にすがっているように聞こえるのも理解できます。しかし、私が言いたいのは、我が民が選んだ道が何であれ、その選択が尊重されるべきだということなのです」

 ヌルハチはさらに言葉を選びながら続けようとした。……が、それを純正は制した。

「ですから、その尊重云々うんぬんが、それが領土と如何なる関わりがあるのですか? 仰せの事が支離滅裂で、ここが貴殿の、女真国の領土たる故にはなっておりませぬ」

 ……。

「まったくの詭弁きべんではありませぬか。戻ってきたとて、生活の糧がないのですから、また捨てる事になりますぞ。とにかく、捨てておいて何が魂ですか。何が我が民が望むならですか。然様な土地、領土でも何でもありますまい。領土とはすなわち、命を賭してでも守り抜く、然様な土地の事を申すのではありませぬか?」




 領土交渉とは本来であればもっと複雑で、微に入り細を穿った調整や交渉を重ねるものであるが、もう何年も何十年も前に捨てた、少なくとも女真族にとっては要なしの地である。

 ヌルハチにとっては、昔自分の民族が住んでいた土地に日本人が住み着いて町を造っているが、それをいまさら我が領土だから出て行け、もしくは女真族の地とせよと言っているようなものだ。

 しかしそれはヌルハチ自身もよくわかっており、交渉の主導権を握ろうとして持論として展開しているに過ぎなかった。




 国益を守りつつ肥前国との友好を図り、持続する。

 ならば、此の地に固執することは、国益にかなわぬし、得策ではない。

「やはり一筋縄ではいかぬか。これほど早く我が地に拠点をつくるとは……」

 ヌルハチは悩んだ末、純正と具体的な領土交渉に入るのであった。




 次回 第738話 (仮)『女真、明、朝鮮、肥前国~李氏朝鮮第14代国王宣祖への謁見』

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