人物紹介⑤(273話~347話)

種子島時尭(33)※273話
種子島氏第14代島主。日本に最初に銃を導入し、国産化に導いた。小佐々家の南方戦略にともない、冷え切っていた島津家と関係を清算するため、同盟を結ぶ。

仲屋乾通(51)※
戦国期の豊後の豪商。通称は次郎左衛門。享禄・天文年間頃に、豊後府内でにおいて対外貿易で巨利を築いたといわれる。戦国末期の臼杵の豪商・仲屋宗越の父。

肝付良兼(26)※
肝付氏17代当主。伊東氏と同盟し、飫肥を攻めて島津軍を撃退する。元亀2年(1571年)には伊地知重興の救援に向かい、島津軍を撃退した。しかし直後に病死した。享年37。

伊地知重興(33)※
大隅国の国人・伊地知氏の9代当主。下大隅の本城・垂水・田上・高城・下之城の領主。

禰寝重長(25)※
大隅国の国人である禰寝氏の第16代当主で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。根占七ヶ郷(根占院。現在の肝属郡錦江町大根占地域及び肝属郡南大隅町根占地域)を領有していた。

島津貴久(48)※
島津氏の第15代当主。島津氏の中興の祖である島津忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏第9代当主・島津忠国の玄孫にあたり、第14代当主・島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。

島津義久(28)※
島津氏第16代当主。薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは龍造寺氏を撃ち破った。

島津義弘(26)※
島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。

島津歳久(24)※
島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。

島津家久(14)※
島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の娘。若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。各地を転戦し活躍するが、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死する。

伊東義祐(49)※
日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。永禄12年(1569年)に飫肥を知行。島津氏を政治的に圧倒し、日向国内に48の支城を構え伊東氏の最盛期を築き上げるも、奢侈と京風文化に溺れ、木崎原の戦いに敗れてからは伊東家の凋落は早かった。

一条兼定(18)※
キリシタンでもある。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。豊後の大友氏や伊予の宇都宮氏と組んで伊予侵攻を図るが、長宗我部元親に押され豊後に逃走する。大友氏の助けを借りて土佐へ進撃するも四万十川の戦いで大敗。その後一条氏は滅亡する。

長宗我部元親(23)※
長宗我部氏第21代当主。幼名は弥三郎。土佐国岡豊城主・国親の長男。国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後、各地の土豪を倒して四国を統一した。しかし、豊臣秀吉の四国征伐によって降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。「長宗我部元親百箇条」を定めた。

香宗我部親泰(19)※
長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の三男。親泰は元親の分身として四国各地を転戦し、よく補佐を務めた。親泰の死で元親を補佐・諫言できる者がいなくなり、その後元親は暴走を繰り返して長宗我部家は衰退し、元親の没後には改易となる。

河野通宣(40)※
伊予河野氏の第38代当主。湯築城主。通政の早世により、通宣が若年で家督を継ぎ、父・通直の後見を受けた。内憂外患で危機的状況にあったが、毛利元就と同盟を結び、その支援により、敵を撃退しました。その後、永禄13年(1570年)頃に死没。

赤塚真賢(20)※320話
島津家の忍、山くぐり衆の棟梁。武将としてもしられ、隠密行動の他にも転戦し、三ツ山地頭代及び足軽大将へ任じられ20年以上、三ツ山城でそれを務めた。

伊東祐青(17)※321話
日向伊東氏の家臣。室の町上(伊東義祐の娘)との間に、祐益(伊東マンショ)・祐平など4人の子がいる。

藤原千方景親(16)347話
小佐々家情報大臣で諜報部門石宗衆の頭領藤原千方景延の嫡男である。優秀だが、父親に認められようと勇み足もある。

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