第152話 『五島沖の事故。嘉永五年との別段和蘭風説書』

 嘉永五年七月二十三日(1852/9/6) 五島沖

 平戸、壱岐対馬、天草、五島と何度も試験航海を曙丸は繰り返していた。

「主機は順調にございます! スクリューも滞りなく動いておりまする」

「艦橋了解」

 機関長からの報告である。

 試作のスクリューを取り付けた小型の機帆船『曙丸』は、蒸気機関の力を借りてゆっくりと前進していた。佐久間象山が苦心の末に開発し、試行錯誤を繰り返してやっと成功したものである。

 船長の佐藤大全は甲板に立ち、海面を切り裂くように進む船の姿に満足げな表情を浮かべていた。

「よくぞここまで辿り着いたものじゃ。西洋の技術を我が物とし、大海原に乗り出す。これぞまさに日本の進むべき道であろう」




「報告します! スクリューの回転が不安定になっております!」

「なにい? !」

 航海開始から数時間が経過し、五島沖に差し掛かった頃、突如として船の動きに異変が起こったのだ。スクリューの回転音が徐々に鈍くなり、船の速度が急激に低下し始めた。

「機関長、状況は?」

 慌ただしい点検の後、機関長の報告が入る。

「申し上げます。スターンチューブ付近から異音が聞こえ、振動が増しております。パッキンの状態が悪化しているようで、潤滑油が漏れ出しているのが確認されました。このまま使用を続けますと、パッキンが完全に機能を失い、浸水する恐れがございます」

 深刻な状況に顔をしかめた船長であったが、すぐに冷静さを取り戻した。

「了解! 機関停止! 帆走に切り替えよ」

 船長の命令に、乗組員全員が迅速に動き出した。機関士たちは慎重に蒸気機関を停止させ、スクリューシャフトの回転を完全に止めた。同時に甲板上では水夫たちが素早く帆を展開し始める。

「風向きはどうじゃ?」

「南南東の風でござります。五島福江は我らの北西に位置しております。順風と申せましょう」

 船長の問いに航海長が答えた。

「これは天佑てんゆうというべきか。この風を使って福江を目指そう。されど細心の注意が必要じゃ」

 船長は甲板に集まった乗組員たちに向かって声を上げる。

「諸君、天の恵みで順風を得た! 全員心をいつにすれば、必ずや無事に福江にたどり着けるはずじゃ!」

「はは!」

 船員達は力強く応じ、曙丸は順風に乗って五島を目指して航行を始めた。




 ■江戸城

 嘉永五年壬子みずのえね別段風説書(抄) 司天台訳※

 アメリカ合衆国が日本に艦隊を派遣し、交易を目的とした来航を計画しています。主な目的は下記の通り。

 ・日本の皇帝へ大統領の親書を提出
 ・日本の漂流民の帰還
 ・一つないし二つの港での貿易許可の要請
 ・蒸気船用の石炭貯蔵港の確保

 当初の艦隊構成は下記の通り。
 シュスケハンナ号 (蒸気外輪船)
 サラトガ号、プリモス号、セントメリー号、バンダリア号 (全てコルベット)

 追加される艦船
 ミシシッピー号 (蒸気外輪船、旗艦)
 プリンストン号 (蒸気スクリュー船)
 ペルリ号 (ブリック)
 サプライ号 (輸送船)

 艦隊司令官は当初オーリックでしたが、ペリーに交代しました。

 出帆は1852年4月以降になる見込みです。一部の情報では、陸軍部隊や攻城武器も搭載されているとのことです。

   ※江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂へんさん・洋書翻訳などを行った施設




「伊勢守殿、これは……一隻ではなく、九隻の船で来る、ということにございますか?」

「然様、この風説書にはその様に書いております。幸い台場は一番から三番、そして五番と六番が完成しておりますゆえ、江戸内海の奥深くへ異人の船が入る事は能わぬと存ずるが、如何いかに処すかは考えておかねばなりますまい」

 牧野忠雅の問いに対して、阿部正弘が険しい表情で答えた。

 正弘は厳しい表情で切り出す。

「方々、此度こたびの風説書の中身は重しにござる。メリケンが大いなる軍船団を率いてわが国へ来る事を企てているようで、まずはこの風説書の中身について皆様のお考えをお伺いしたい」

「伊勢守殿、九隻もの軍船で来るとなれば、尋常ではありません。特に兵士や城攻めの武器などもあるとなれば、捨て置けませぬ」

 牧野忠雅が眉をひそめながら答えると、松平乗全のりやすは冷静な面持ちで意見を述べる。

「確かに大いなる軍船団ではござるが、その当て(目的)は伯理璽天徳プレジデントの親書提出や漂泊の民を返す事など、外交的な事柄が重き事のように見受けられます。これらにどう処すべきか、構えて(慎重に)おもいみら(検討する)ねばなりませぬ」

「風説書の中身は実につぶさ(詳細)ですな。軍船団の中身や将の交代まで記されておる」

 内藤信親は風説書を見つめながら言った。

「蒸気船用の石炭貯蔵港の確保という求めが気になります。これに如何に処すか、重き判(重大な決断)を迫られそうです」

「出帆が今年の四月より後と書いておるが、既に出船しておるやもしれぬ。いずれにしても、これは我らに備えるときがあるということでもあります。この報せを如何に活かすか、考えねばなりますまい」

 松平忠固ただかたの発言の後、じっくり考えていた久世広周ひろちかは、正弘の顔を見て思慮深げに述べた。

「方々のお考え、よく分かりました。如何にすべきか、つぶさなる策はございましょうや」

「台場は既に出来上がっておるとの事。然れどそれを如何に用いるかが肝要かと存じます。砲術の稽古を一層励むよう命じ、急ぎの折いかに報せを送るか。その仕組みを整えるなど、すぐにも取り掛かるべきでしょう」

 正弘の問いに忠雅が答えると、松平乗全も同意する。
 
「然に候。加えて、長崎や薩摩、蝦夷地方面の戒めも厳にせねばなりますまい。各大名家中へ文を送り、その旨しかと申し渡すべきかと」

 そう言えば、と正弘がぽつりと言った。

「大村……大村丹後守殿のお考えを聞くのは如何いかがでござろうか? かの家中は和蘭とも近く、多数の技師や教官を招聘しょうへいしておる。蒸気船も造っておるし、他の大名とは違った考えや策をお持ちかもしれぬ」

 阿部正弘の提案に一同は驚きの表情を浮かべるが、その中から牧野忠雅が反対意見を述べる。

「伊勢守殿、丹後守殿の知見は確かに貴重かもしれませぬが、いかに和蘭通とはいえ一介の外様大名に公儀が考えを聞くなど、沽券こけんに関わるのではございませぬか? 斯様かような事も公儀は決められぬのかと笑われまする」

 牧野の意見と似たり寄ったりの考えが、他の老中からも次から次へと出てくる。

「方々の懸念は良くわかりました。確かに公儀の威信を損なうことがあってはなりませぬ。然れどこの国難にあたっては、そうとばかりも言っておられませぬぞ」

「では、こうしてはいかがでしょう。丹後守殿から直に考えを聞くのではなく、長崎奉行を通じて考えを聞く。然すれば公儀の体面を保ちつつ、要する知見を得ることができるのではないでしょうか」

「然様。その案であれば、公儀の沽券に関わることなく、大村家中の知識も活かせましょう。本来であれば長崎を警固する他の家中からも聞いた方が良いかと存ずるが、あまり多いとよろしくありませぬ」

 正弘の答えに松平忠固が折衷案を提示すると、久世広周もこれに賛同した。

「よし、では長崎奉行を通じて聞く事といたしましょう。ただし、これは極秘裏に進める事とする」




 次回 第153話 (仮)『石油精製法その弐』

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