第185話 『次郎の思惑、クルティウスの思惑』

 安政年十二月一日(1855/1/18)

 嘉永七年の十一月二十七日に、安政への改元が行われた。

 増え続ける外国船来航と、内裏の火災、そして安政地震の始まりである伊賀地震など、凶事が続いたことが理由である。幕府はアメリカと通商は結ばなかったものの、海防の重要性を再認識し、オランダに対して軍艦の発注と教官団の派遣を依頼した。

 ■長崎 オランダ商館

「実はクルティウス殿、|此度《こたび》はご相談があって参りました」

「これは奇遇ですね。実は私も次郎殿にお伺いしたい事があったのですよ」

 クルティウスは微笑んだが、その表情には僅かな緊張が窺えた。次郎もまた、商談の場にふさわしい真剣な面持ちで応じる。

「そうですか。では、某からお話しさせていただきましょう」

 次郎は言った。

「実は鉄と銅、亜鉛などの鉱物資源の調達について相談があります(石油や石炭も……将来的にはボーキサイトも)」

 クルティウスは興味深そうに眉を上げた。

「なるほど……鉄と銅に亜鉛ですか? 大量に必要なのでしょうか?」

「はい。将来的には大量に必要になるかと存じます。その上で、具体的な量は後ほどになりますが、安定的な供給は可能でしょうか。また、可能であればお願いしたいのです」

 鉄に限って言えば、幕末の日本で資源不足という話は聞かない。むしろ出銑(鉄鉱石や砂鉄から銑鉄を取り出すこと)が可能な高炉の商業的操業は、明治に入っての釜石製鉄所が初である。

 そのため、このまま大村藩が製鉄技術を独占していれば、鉄の需要が極端に上がらない限りは、問題はない。しかし、大村で学んでいる学生は、いずれ各地へ散って技術を伝播していくだろう。

 大村藩は安全保障上の観点から、造船や製鉄といった先端技術に関しては全てを教えてはいない。

 しかし、遅かれ早かれ、である。

 全国的な鉄の需要がどの程度になるのか予測はつかないが、コスト面と供給量の面を考えれば、インドネシアにパイプを作っておいた方が良い。

「なるほど。……例えば、でお伺いしますが、その用途は……武器ですか?」

「はい」

 次郎は短く答えた。

 クルティウスは次郎の言葉を聞き、しばらく考えた後に慎重に言葉を選びながら口を開く。
 
「なるほど。武器製造に必要な資源の調達ですか。確かに重要な案件ですね。……結論から言うと可能です。ただ、一つだけ気がかりなことがあります」

「なんでしょう?」

「幕府です」

「幕府?」

 次郎は鉄鉱石の輸入に幕府が関係するというクルティウスの言葉に、驚きつつも耳を傾ける。

「おそらく幕府は、今後、アメリカと通商条約を結ぶでしょう。わが国も先日、ロシアに先駆けて和親条約を結ぶ事ができました。これは実に喜ばしい事です」

 オランダは、史実では一年後の安政二年十二月二十三日に日蘭和親条約を締結する。

 しかし前倒しの軍艦発注と観光丸の寄贈、海軍創設に必要な教官団の派遣等の功績を認められて、先月調印をしていたのだ。1年ほど歴史が進んでいる。

「その次は恐らく、列強も通商を求めてくるでしょうから、各国と通商条約を結ばざるを得ない状況となります。もし通商条約を結べば、わが国だけでなく各国と貿易を行うようになり、幕府以外にも各藩がこぞって武器や軍艦を発注するのは目に見えています」

「はい」

 と返事をした次郎は、クルティウスが言いたい事がだんだん分かってきた。

「ここで懸念事項が三つあります。一つは、幕府が武器や軍艦の輸入を禁じないか? という事。ただし、これはあまり心配はしておりません。大村藩の場合は……私も初めて聞いた時は驚きましたが、藩で造船が可能ですし、鉄もしかり、銃や大砲も自作しております」

 ははは、と次郎は笑顔で聞いている。

「二つ目は、その原料をも輸入を禁ずるのではないか、という事です。大村藩が自力で造船が可能な事はもはや誰もが知るところ。大砲や小銃も同じです。そうなれば、どうなさいますか?」

 クルティウスの顔は真剣そのものである。次郎もまた真剣に聞き、頭の中で論旨を整理する。

「また三つ目は、これはこちらの事情になりますが、今はわが国としか交易しておりませんので、次郎殿はわが国に輸出の要望をされています。しかし今後、イギリスやフランス、アメリカと交易が可能になっても、わが国を優遇して下さいますか?」

 次郎は真剣な顔をして頷きながらクルティウスの話をずっと聞いていたが、やがて深く息を吸い、笑顔と共に答えた。

「クルティウス殿、全く問題ありません」

 ほう? と言葉にださずにクルティウスは身を乗り出す。

「まず第一に、仰せの様に大村藩は武器と船を藩で生産しています。故に心配は無用です。また、二つ目は、我が藩は蒸気機関車も製造しております。他にも日用雑貨や生活必需品に鉄や亜鉛や真鍮などは使われております。軍需物資とは限りません」

 次郎は続けた。

「もしそれも禁ずるなら、公儀は以前の約を違えた事になり、信用を落とすことになります。第一、海防海防と言っておきながら、今さら武器や船、さらに原料の輸入を禁じるなど言語道断」

 しばらくの沈黙の後、次郎の答えは続く。クルティウスは黙って聞いている。

「三つ目の貴国以外との通商に関してですが、長年の付き合いもありますし、他がよほどの条件を出してきたとしても、需要がなくならない限り、一定数は輸入します。もちろん、それが他国より少なくなることはありません。ただ、自由貿易をうたっている条約でしょうから、0とはいきません」

 そう言って冗談ぽく笑う。加えて、と次郎は付け加えた。

「もしこの取引が幕府の心象を悪くして、貴国の損害につながりそうならば、幕府が発注するであろう軍艦を、我が藩が代わりに購入いたします。もちろん、適正価格ではありますが」

 クルティウスの顔はわずかに口角が上がり、その表情には驚きと安堵、そして尊敬の色が混ざっている。やがて、彼はゆっくりと口を開く。

「次郎殿、ご回答ありがとうございます。実に明確で、かつ包括的な答えでした」

 クルティウスは椅子に深く腰掛け、続ける。

「大村藩の技術力と先見性には、常々感銘を受けておりましたが、今回のお話でさらにその思いを強くしました。特に、軍需以外の用途を明確に示されたことは、非常に賢明な戦略だと思います」

 彼は一呼吸置いてから、さらに続ける。

「そして、長年の関係を重視してくださることに、心から感謝申し上げます。相互の信頼関係こそが、この先の不確実な時代を乗り越える鍵になると確信しています」

 クルティウスは机の上の書類に目を向け言う。

「では、具体的な取引の詳細について話し合いましょう。まずは、どの程度の量をお考えですか?そして、どのようなスケジュールで調達を希望されますか?」

 二人のこの会話が両国の関係をさらに深めていく事になる。

 次回 第186話 (仮)『日露和親条約』

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