天正元年(1572) 三月二十八日 京都 大使館
先日十三日の御申出、石山の御坊の御意趣(石山本願寺の意向)にも沿うものにて、お受け致したく存じ候。
以後は幾久しく誼を通わし、盛んに商いを行いたく存じ候。
さて、権中納言様(純正)におかれては、上杉と越中門徒との和議を扱ひけり(調停した)と聞き及び候。
誠に有り難き事なれど、恨めしき至り(残念な結果)となりけり候。
加えて越後より謙信出でて、越中に討ち入らんとの報せを受けき候。
われら軍兵を率いて合力いたさんとするも、分の悪しき軍の恐れありと案じ候へば、率爾(ぶしつけ)ながら権中納言様の合力をお願い申し上げ候。恐惶謹言。
三月十五日 玄任
小佐々権中納言様
予想通りの玄任の返信である。
これには了解の旨と、援軍の件とは別件で上杉と戦うので、間接的に援軍になると送った。
攻守の盟約ではなく、あくまで『たまたま』戦うので、援軍と同様になる、と加えたのだ。
ここであからさまに援軍になってしまうと、今後織田と本願寺が戦った際に、味方しないと余計なとばっちりを受けるかもしれないからだ。
あくまで、付かず離れず、である。
■能登 所口湊
「これだけの軍兵を率るのは初めてにございますな」
大名衆軍団の副将である高橋紹運は言う。確かに五万近い軍勢を率いるのは大将の道雪にとっても初めてである。
「然もありなん(そりゃそうだろう)。鎮西だけでなく四国の軍兵もそろうておる。しかも全てではない」
還暦を迎えた道雪と、三十五も年の若い紹運の組み合わせであるが、互いに尊敬しあう間柄である。
「さて、以後はいかがなさいますか」
「うむ」
紹運の問いに道雪が答える。
「まずは土佐一条の軍兵の着到をもって軍評定をせねばなるまいて。御屋形様よりの命は、新しき軍旅には、謙信には先に掛かるべからずとあったが、これは我らも同じであろう。されど、専ら守りて防ぎて衛れ、という事ではあるまい」
ははははは、と道雪が笑う。
「つまりは奇に(むやみに)打ち掛かる(攻撃する)のではなく、仇(敵)の有り様の報せをよく吟味し動け、と? 上杉が仇(敵)なりは自明の理。この上取り掛からるるを(攻められるのを)待てとはおかしな事にございますからね」
「左様」
あうんの呼吸とはこのことであろうか。
直属の軍は一万五千ではあるが、五万すべてを直接指揮するならば? 風神・雷神である。いかに謙信とて、そら恐ろしいものを感じずにはいられないだろう。
「然りとて(そうは言っても)、そこらく(十分)に用心せねばならぬぞ。此(ここ)は勝手知りたる筑前でもなければ豊後でもない。ましてや仇は軍神たる上杉謙信である。つくづくと(よくよく)案じ、手並み拝見といこうではないか」
まだ見ぬ敵、毘沙門天の化身たる謙信と、摩利支天の化身たる二人の戦いが始まろうとしている。
■七尾城
「各々方……対馬守(長続連)、美作守(遊佐続光)、備中守(温井景隆)……このままでよいのか?」
能登畠山家当主、畠山修理大夫義慶の言葉である。当主であるにもかかわらず、七人衆の三人に気を遣った言い回しで聞いている。
「殿、このままでよいのか? とは、一体何のことにございましょうや」
筆頭の長続連が言うと、温井景隆も続く。
「左様、われら中納言様の軍兵を領内に入れること同じき(同意した)にございます。その上、軍道具(武器)に兵糧矢玉の備えも同じており、この上なにをせねばならぬのでございましょうや」
「……」
そのどちらもしぶしぶ同意した遊佐続光は発言しない。
「そは(それは)……そもそも中納言様はわれら能登の権(権威)を高め、越中の静謐を成さんが為に、ご尽力なされておるのではないか? 恨めしき事に(残念ながら)両越の和は成らず、謙信が一向宗を攻める事となった」
長続連と温井景隆は、やれやれ、といった顔で義慶の話を聞いている。長続連対温井・遊佐の構図であったが、この部分では少し違っているようだ。
「……どうにも意を得ませぬが、では殿は、いかがなさりたいのでございますか?」
今度は温井景隆が義慶に尋ねる。
「……無論、われらも軍兵を整え、共に謙信に臨むべきであると案じておるが、いかがであろうか?」
義慶の言葉に、座が静まりかえった。
それはつまり、表向きはこの戦いに我関せずを貫いてきた畠山家が、大っぴらに上杉家に対抗すると言う事なのだ。
「殿、そしてご一同。ここであえて申し上げるが、あの謙信ですぞ。やすやすと負けて越後に帰りましょうや。惟て(よくよく考えて)、遠慮して(深く考えて)みてくだされ。万が一、万が一中納言様が負けたらいかがいたすのですか?」
……。
……。
……。
(その時は、謙信に寝返って、当主の首をすげ替えれば良い。思慮のたらない若年当主の勝手な振る舞い。われらも抑えがきかなかった、という事にすればいい……)
「では殿、もしそれでもご出陣をお望みなら、様々な事の様を鑑みて(状況を考慮して)、われら全軍にて越中へ討ち入る事能いませぬ。殿御自ら手勢を率て討ち入らねばなりませぬが、そのお覚悟はおありですか?」
「……あい、わかった。ではわた……われが、俺が自ら率て越中に討ち入らん」
義慶は覚悟を決めた。
純正が能登にきて、馬車の中で交わした話を思い出したのだ。このまま傀儡のままでいいのか? 日々の不遇を嘆いてばかりでは状況はかわらない。
確かに遊佐続光が言う様に謙信は手強い。
負ける可能性がないとはいえない。しかし、ここで何もしなければ、これから先もずっと何も出来ない世間知らずで終わるのだ。
義慶は自領に陣触れを出し、三千の兵で大名勢と合流するのであった。
※一人称の俺、という表現は古くから男女問わず使われていたようです。
■飛騨国 吉城郡 塩屋城下 第二師団陣地
「状況はどうか?」
「は、ただいま斥候を出しておりますが、いまだ謙信の情報はつかめておりませぬ」
「ふむ、状況から見て、まだ越中に入ってはおらぬだろう。憶測はよくはないが、ここで報せを待つほかはないか」
第二師団長の小田賢光少将は、越中の城生城周辺に斥候を出し、謙信の通過を待って側背を衝く作戦であった。飛騨から越中へ入る経路は三つある。
一つは今いる塩屋村から川沿いの街道を北上する道、もう一つは後白川村から越中の赤尾村へ入る道、そして最後に羽根村、二屋村より峠を越える道である。
塩屋村口はかろうじて馬と大砲の移動が可能なくらいの幅である。
残りの二つは白川村口、羽根村口の順に狭い。羽根村口などは馬は注意しないと離合すら出来ない幅なのだ。
消去法で賢光は塩屋村口を選択し、情報収集と付近の地形を調べている。
山間部での戦闘はなるべくなら避けたいところだが、そうもいかない。十分に注意喚起をして、謙信を待つ。
■第三師団、陸路にて北信濃の平倉城へ 4/5着予定。
■土佐軍、敦賀を出港。一路能登所口湊へ。
■加賀一揆軍、三月二十九日金沢御坊発予定。
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