天正元年 三月三十日 甲斐 躑躅ヶ崎館 信玄居室(下に意訳あり)
なおなお 寒さの厳しい砌(時・頃)にて、心地あやまる(体調不良・病気になる)事のなきよう、お祈り申し上げ候。
師走の候、武田大膳大夫(信玄)様におかれましては、ますますご健勝の事と、お慶び申し上げ候。
いまだ申し入れず候といへども(これまで音信はありませんが)、はじめて文を記し送りき儀にてお許し頂きたく存じ候。
貴殿の名は日ノ本の津々浦々にその威光を放ち、遠きこの九州の地にても我ら武士の心に深く刻まれており候。
はじめに、貴殿の武勇と英知に敬意を表させていただきたく存じ候。
甲斐より信濃へと一統を成し、飛騨上野の国人を服属させ、その偉業はまさに天下の大将の所業と存じ候。
加えて貴殿の教えはただの兵法に留まらずして、武士の心得として多くの者に影響を与えており候。
甲斐は定まり栄へたりと聞き及び候へば、全てが貴殿の治の賜物である事は疑う余地のなき仕儀に候。
さて、我の興(興味)は上杉謙信公という人物にも及びき候。
謙信公は貴殿の侮り難し敵として知られており候へば、一つ伺いたく存じ候。
謙信公との軍で感じけり儀、その方の兵法や気質など、貴殿のご意趣をお聞かせ願いたく存じ候。
貴殿の更なるご健勝とご発展を、九州豊後にて心よりお祈り申し上げ候。恐惶謹言。
(永禄十一年)十一月七日 戸次道雪 花押
武田大膳大夫様
(※意訳※)
12月ですが、武田信玄様におかれましては、ますますお元気ではないかと思い、喜ばしい限りです。
今まで連絡しあった事はありませんが、はじめて手紙を送る事をお許しください。
あなたの名前は日本全国に響き渡り、遠いこの九州の地の私達にも印象が深いです。
最初にあなたの武勇と英知に敬意を表させていただきたいと思います。
甲斐から始まって信濃を統一し、飛騨や上野の国人を従えて、その偉業はまさに天下一の大名のなせる事だと思います。
それプラスあなたの教えは単なる戦術だけじゃなく、武士の心構えとして多くの者に影響を与えています。
甲斐国は安定して繁栄していると聞いています。これは全部あなたの政治のおかげだという事は、疑いようもありません。
話はかわりますけど、私は上杉謙信公という人物にも興味があります。
彼はあなたのライバルとして知られていますが、一つ聞きたいのです。
戦って感じた事、戦術や性格など、あなたの考えを教えて貰えませんか?
あなたの更なるご健勝とご発展を、九州豊後にて心よりお祈り申し上げています。恐惶謹言。
いよいよ寒さが厳しくなってきたのだ体調を崩さないように、祈っています。
(永禄十一年)十一月七日 戸次道雪 花押
武田大膳大夫様
「父上、これは……」
「ふふふ、世の中には実に珍しい人間もいるものだと、思い出しておったのよ」
今から四年前の永禄十一年の十一月に出された、豊後の戸次(立花)道雪から信玄へと宛てられた手紙である。
「この御仁は確か、小佐々の御家中でも四国を統べる大友宗麟公の、重臣ではございませぬか?」
「そうだ。四郎よ、お主、会うた事があるのか?」
「いえ、ございませぬ」
「ふむ、四国に九州は遠いゆえな」
「して、返書はお送りなされたのですか?」
「うむ、隠すような事でもないからの。その砌(時)は、今より小佐々の名は通っておらぬでな」
小佐々が畿内以西を治めるなど、考えもつかなかったのだろう。
ともかく、永禄十一年の十一月と言えば、ちょうど信玄が駿河に侵攻するかしないか、という時期である。遠方から送られてきたその手紙に、信玄の興味はそそられたのだ。
もちろん送った道雪も、勉強のためである。
古今東西の戦争や人物について調べ、学ぼうという試みであった。それがこのような小佐々と武田の関係になろうとは、二人とも思いも寄らなかっただろう。
■京都 大使館
発 第四艦隊司令長官 宛 権中納言
秘メ 我 命ヲ受ケ 越後沖 航行続ケキモ ○三二四 拿捕曳航ノ 後 越後ノ 荷船 減リケリテ ツヒニハ 消エ失セケリ
寺泊、新潟、柏崎、直江津ノ他 イヅレモ 出ヅ(出る) 荷船 ナシ 秘メ
「御屋形様、これは……」
直茂が純正に尋ねる。
「うむ。初日に拿捕した分の荷船以外、見当たらないという事は、たまたまではないな」
「は、おそらくはこちらの意図に気づいて湊から出でぬよう、指図があったのではないかと思われます」
「うむ。いつまで続くかわからないが、用心に越したことはない。なにせあの謙信であるからな」
発 中納言 宛 第四艦隊司令長官
秘メ 敵ノ 目的ハ 不明ナレド 注意 怠ル ベカラズ ヨクヨク 警戒シ 任ニ アタレ
ナホ 会敵 シタナラバ スミヤカニ 殲滅セヨ 然レドモ 怪シ、尋常 ナラザルト
感ジタ ナラバ 撤退モ ヤムナシ 秘メ
■能登 所口湊 在能番所
「九州の戸次(立花)道雪にござる」
「同じく高橋主膳兵衛(紹運)にござる」
「摂津の三好阿波守(長治)にござる」
「同じく小西隆佐(行長の父)にござる」
「土佐の一条(権中納言)兼定である」
全員の表情が一瞬こわばった気がするが、すぐにもとに戻った。
「(チッ!)同じく長宗我部宮内少輔(元親)にござる」
「肥前の龍造寺民部大輔(純家)にござる」
「同じく納富但馬守(信景)ござる」
「薩摩の島津兵庫頭(義弘)にござる」
「同じく島津左衛門督(歳久)にござる」
戸次軍、摂津三好軍、一条軍、龍造寺軍、島津軍の大将と副将が一堂に会し挨拶をした。それぞれのさらに副将は後ろに控えている。
「さて、まずは各々方、挨拶も終わったところで、此度の軍の当て所(目的)を再び確かめたく存ずる」
全員がうなずいて道雪は続ける。
「敵は御屋形様も一目おいており申す。盟友である武田大膳大夫(勝頼)様の御父君である信玄公との軍で、五度も互角に渡り合ったという軍上手にござる」
おおお、というざわめきが起きる。さすがに信玄と謙信のネームバリューはあるようだ。
「御屋形様は、敵を討ち滅ぼすのではなく、越後まで退かせよとの仰せである」
「何と! 敵と一戦交え、退かせるだけにござるか?」
そう発言したのは島津義弘である。隣に座っている歳久は苦笑いをしている。
「まあまあ、兵庫頭殿(義弘)。もともとこの軍は守勢にござる。越中の静謐が御屋形様のお望みであるゆえ、攻勢に転じて越後に討ち入って謙信を討ち取るなど、せずともよいのでござるよ」
わはははは、と笑いが起きる。
「然らば、如何なる武略をもってあたるのでござるか?」
三好長治が尋ねる。長治は兵庫の整備のための予算が欲しいのだ。
守勢とは言え、目に見える武功が欲しい。もっともそれは、ここにいる誰もが欲しがるものであった。
「うむ、まずは謙信の当て所(目的)にござるが、一向宗を討ち滅ぼし、越中を我が物にせん事にある。一向宗は勝興寺と瑞泉寺が主な足溜(根拠地)であるが、勝興寺は放生津城に守山城、神保の息がかかっておるゆえ鑑みずともよかろう」
全員が道雪の発言に聞き入る。
「そこで謙信は井波城(瑞泉寺)、まずはそこに掛かる(攻撃する)であろう。その後、加賀からも一向宗の後詰めが来る故、国境から土山御坊、そして井波城のあたりが戦場となるであろうと存ずる」
道雪は、あくまで推論であり、報せを待たねばならない、と加えた。
「では、われらは南進し、謙信と相まみえると?」
龍造寺純家が、確認する。
「然にあらず。ここ七尾より南に進めば、神保に服属しておる菊池の城があり申す。まずはそこに向かい、城主菊池伊豆守(武勝)の本意(本心)を確かめねばならぬ。そのさきの守山城主である神保安芸守(氏張)も同じにござる」
「本意とは?」
「かねてより御屋形様は調略を行い、菊池ならびに神保には、われらに合力するか、せずとも兵を動かさぬよう申し入れておる」
「左様にございましたか。然りながら動かぬとはいえ、再び寝返れば後ろを取られまするぞ」
「ご案じめさるな。備えをおいて進めば物にもあらず(問題ない)」
純家は納得し、道雪は他の者の質問に歯切れ良く答える。
「とてもかくても(いずれにしても)、二日前に謙信は越中に入るとの報せを受けておる故、二、三日で増山城に着到するであろう。それまでにわれらも間に合うよう、明日出立いたすとする。よろしいか」
満場一致で明日の出発となった。
「ご一同! それがしも合力いたしたく罷り越しました。何卒末席に加えてくだされ」
■第三師団、陸路にて北信濃平倉城へ 4/5着予定。
■第二師団、吉城郡の塩屋城下にて待機。
■謙信越中松倉城着
■第四艦隊、越後沖警戒監視中(商船拿捕曳航目的)
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