第557話 島津軍の混乱 毘沙門天・上杉謙信は何処?

 天正元年 四月五日 辰四つ刻(0830)能登 鹿島郡 

「なんと……誠であったか……」

「はは、所口湊には数多の兵船があり、城下は無論の事、湊も上杉の兵で溢れておりました」

 畠山義慶よしなりは阿尾城を襲った敵に備えるため、道雪本隊から離れ、別働隊として千久里城へ向かい、菊池武勝と同行して阿尾城近くに布陣していたのだ。

 その後義慶は、道雪から上杉水軍が能登へ向かう恐れありとの知らせを受け、急遽軍を北上させ能登に入った。

 七尾城への途上である古府村の南西にある枡形山に布陣して、様子を探らせるために七尾城へ物見を放っていたのである。

「……いくさは、争うた跡はないのか?」

「は、ございませぬ。乱暴狼藉もなく、ただ、うたて(不気味に)上杉勢がおりました」

「然うか、ご苦労であった。下がってよい」

「はは」

「……さて、いかが致そうか。争うた跡がないとなると、続光(遊佐続光)や景隆(温井景隆)は降ったと考えるべきか……。否、続連(長続連)が上杉に降るはずがない。だとすれば、いや、まずは事の様(状況)を探らねばなるまい」

 義慶は側近の大塚孫兵衛尉連家に、自ら七尾城へ赴いて事の顛末てんまつを探ろうと告げた。

「なりませぬ! 上杉の船手衆が場内におるやもしれず、また御家老方の事の様(状況)も定かではありませぬゆえ、危うくございます」

 連家は、まずは自分が名代として城へ向かうと言う。

うか。れど、用心せねばならぬぞ。お主が行くという事は、俺が行くという事に他ならぬ。命危うしと感じたならば、無理をするでないぞ」

「心得ております」

 そうして連家は数名の供をつれて七尾城へ向かった。

 

 ■上杉本陣

「よし! 甘粕藤右衛門(景継)!」

「は!」

「お主は中条越前守(中条藤資)の二千と吉江織部助(景資)の千、加えて本庄越前守(繁長)と願海寺城の後詰めへ行くのだ! 白鳥城を落とした敵勢は五百もおらぬと聞く。寄せ手が来たとてわずかであろう。それよりも小佐々の一軍が願海寺城を奪わんと取り掛く(攻め寄せる)であろうから、敵の陣形が伸びきったところを側様そばざま(側面)から掛かるのだ」

「心得ました!」

「そうであった! あれを! あれも持って行くが良い」

「よろしいのですか?」

「良い。数で劣っておる我らなのだ。斯程かほど(この程度)は毘沙門天も大目にみよう。それに信玄以来の敵ぞ、まともに打ち合いたいが、必ず勝たねばならぬでな」

「はは、それではお借りいたします!」

「誰かおらぬか! 願海寺城の寺崎民部左衛門殿へ伝令に向かうのだ。すぐに後詰めに向かう故、しかと耐えよとな!」

「はは!」

 

 ■小佐々軍 道雪本陣

「敵の動きはいかがか?」

「は、敵陣にあわただしき動きあり。おそらくは願海寺城の後詰めに向かうものと思われます」

「うむ、然うであろうな。願海寺が抜かれれば上杉勢は四面楚歌となろう。海からの兵糧矢玉の補いも、放生津城があれど断つ事は能うでな」

 四半刻(30分)前に島津軍に指示を出していた道雪は、時間が勝負だと考えていた。

「申し上げます! 神保安芸守(氏張)どの、陣払いを行い、守山城に引き上げてございます!」

「なんと! 氏張め、日和見の者かと思うておったが、阿尾城の知らせうけ、怖じ気づいたか」

 高橋紹運が吐き捨てるように言う。

「主膳兵衛殿(紹運)、何もとがめられる事ではあるまい。領内の街道をわれらの勢を通してもらう事、加えていずれにも与しない事を約してもらったのだ。なにも取り合わずともよい。勢も千足らずじゃ」

 調略をする際に条件としたのは、動かない事である。

 菊池武勝は挙兵して腹をくくったわけであるが、守山城の神保氏張は道雪に決戦を急かしていた。挙兵したはいいものの、謙信に勝てるという確証があるわけではない。

 このままでは小佐々軍に勝ち筋がないとみて、当初の最低限の約束である『動かない』という約束を果たしに、城へ戻ったのだ。

 仮に上杉軍が勝ったとして、謙信がどう判断するか分からないが、神保氏張軍と上杉軍は直接刃を交えた訳ではない。

 取り潰されることはないだろう、との判断のもと、撤退した。

 

 ■巳の一つ刻(0900) 願海寺城

「なに? すでに後詰めが向かっておると? おお、さすが毘沙門天の化身である謙信公。思い切りの早さよ。……皆の者、よいか! これより敵の大軍が寄す(攻め寄せる)であろう。然れど! 謙信公の後詰めが向かっておる! 我らの勢は少しき(少ない)なれど、恐るるに足らず、敵を散々にほふらん!」

「おおおー!」

 

 ■巳の二つ刻(0930) 願海寺城 伊東軍(島津)

「よし! 見えてきたぞ! 敵は無勢である! 一気に掛かれいっ!」

 島津隊の先陣は伊東軍である。

 初日に引き分けた事もあり、挽回しようと士気は旺盛だ。願海寺城は平城ではあるが、西側に南北に流れる新堀川があって天然の堀となっている。

 また、南側にある本丸と北側の二の丸にも堀があり、二重の備えとなっている。無理をすれば千五百名程度は詰められる城であるが、そもそもの分母が少ない。

 上杉勢に神保長住勢として参陣しているので、道雪への報告にあったように五百も詰めていないのだ。せいぜい百から二百程度である。

 伊東隊は最初、一気に渡河をしようとした。川幅は30m程で、膝下から膝上程度の深さであったが、渡河は可能である。

 しかし、城兵の弓の斉射にあい、難航したのであった。

 そこで一旦渡河をやめ、弓隊に渡河を援護させながら、城兵を退けたのだ。城兵は撤退し、西側の門周辺に集中するように配置された。

 島津軍の本隊はまだ到着しない。それでも渡河を終えた伊東軍はそのまま進み、城の西側の虎口より攻め入った。

 

 ■下条川東岸・南岸 一条村~戸波村 上杉軍

「よし、島津の本隊が川を渡り始めたぞ! まだじゃ、まだ掛かるでないぞ」

 上杉軍は渡河を始めた島津本隊の渡河の様子をじっと見ている。まだ攻めかからない。島津軍が渡河したのは下条川東岸の戸波村と一条村の境目のあたりである。

 上杉軍はその北と南に軍を配置していた。行軍を開始したのは島津軍の方が早かったのだが、上杉別動隊が布陣していた場所が影響したのだ。

 火宮城の東側の方が、島津軍が布陣していた水戸田村よりも願海寺城までの距離が近く、上杉軍は先回りしていた。

 

 巳の四つ刻(1030)

「ようし今だ! 掛かれいっ! !」

 満を持して南北から上杉軍が、渡河を終えた中軍と本陣の間に突っ込み、分断された島津軍は混乱に陥った。

「くそ! もう来やがったのか! いや、兵を伏せていやがったな!」

 先陣左翼に猿渡信光の五百、中翼に島津家久の千、右翼に鎌田政年の五百。主将は島津家久である。

 中陣左翼に山田有信の五百、中翼に島津歳久の千、右翼に川上忠智の五百。中陣の主将は歳久で、急いで混乱を収めて上杉軍への対処にあたる。

「おい見ろ! あの旗! 『毘』と書かれているぞ! あっちには『龍』の旗指物だ! 謙信、謙信がいるぞ! !」

 どこからともなく上がった声に、島津軍全体に緊張が走る。

「なるほど! 速いのはさすが謙信よ! 相手にとって不足なし!」

 上杉軍六千と、渡河をし終わった島津軍四千との戦いである。島津本隊は邪魔をされ、なかなか渡河ができないまま時間が過ぎていく。

 

 ■午三つ刻(1200) 越中 婦負郡 城生城

「撃ちー方始めー!」

 砲兵隊各指揮官の号令のもと、第二師団麾下の火砲の全力をもって、城生城への砲撃が開始された。

 城生城は南北に長い平山城で、東に神通川、西に土川を天然の堀としている。

 規模は東西150mに南北700mで、北から北郭、二の郭、主郭、そして南は南郭となる。東側に竪堀が複数あり、南の郭の大手門には複雑に虎口が配されている。

 各郭の間には幅10~15mの堀が設けられ、力攻めでは寄せ手もある程度の被害を覚悟しなければならなかった。

 しかし天候は、晴れ。遮蔽物もなく、平山城であり、山城ほどの高低差もない。砲を配置するのに十分な平野がある。

 大手門の破壊を狙った砲撃に、城生城はただの的でしかなかった。

 

 ■信濃 安曇郡 平倉城下

「皆の者、よいか、これより越後に入る。御屋形様は急ぐ事はないと仰せであった。山間の幅の狭い街道ゆえ、兵を進めるのにも刻がかかろう。取り掛く(攻め寄せてくる)敵にも備えねばならぬ。本日はここで野営をし、明日からの行軍の鋭気を養うように」

 第三師団長の小田増光少将は訓示を終え、明日からの行軍計画の修正・立案に入った。

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