1986年(昭和61年)1月25日(土) PM8:00 <風間悠真>
家に帰ったオレは、晩飯もそこそこに丼をもって電話機の前に座る。今みたいにスマホどころか携帯もないので、連絡するとすれば自宅の電話だ。
凪咲が8時に電話をくれると言っていた。だからオレは7時には美咲の家を(泣く泣く)出て帰ってきたんだ。
でもちょっとトイレに行って目を離した隙に――。
「あら、白石さん? ああ、神社上の? ええ、悠真なら今、トイレに……」
お袋の声が聞こえた瞬間、全身に電気が走る。
「うわあああ!」
便所サンダルを履いたまま、廊下を猛ダッシュ。
「はい! 風間です!」
母親から受話器を奪い取るように受け取る。母親が驚いた表情で見ているが、そんなことを気にしている場合ではない。
「もしもし、凪咲?」
「あ、悠真♡ 何してたの?」
「ごめん、ちょっとトイレ行ってて……」
別にトイレは恥ずかしい事じゃない。生理現象だ。
「そうなんだ」
「で、どうしたんだ? テスト勉強の事? 学校で言ってくれたら良かったのに」
別にそんな理由ならわざわざ電話をかけてくる必要もない。
「あのね……たまたま、なんだけどね……」
「うん、どした?」
凪咲は珍しくモジモジしている。
「実は、なんか……お父さんとお母さんが親戚の用事で出かけてて、明日も遅くならないと帰ってこないから……」
凪咲の声が少し上ずっているのがわかる。
「ああ、それで?」
「それで……あの、その……明日、うちで勉強、教えてくれない?」
小さな声で言う凪咲。いつもとは雰囲気とは違う。
「明日?」
頭の中でカレンダーを確認するが、明日は明日、日曜日だ。
「だ、だめ?」
凪咲の声が急に不安げになる。
「ううん、大丈夫だよ。何時がいい?」
心の声は『ぜんぜん! ぜんぜん! まーったく問題ない!』
「午前中……10時くらいから?」
凪咲の声に期待が混じる。両親が不在という状況に、二人とも意識せざるを得ない。特にオレは下半身がうずく。
「分かった。10時に行くよ」
「ホント? やった! ……じゃなくて、あ、ありがと」
最後は照れ隠しのように強がってみせる。そんなところも凪咲らしい。まあ女なんて、正直なところよくわからん。それが本音。51脳をもってしても、完全に理解することはできないのだ。
電話を切った後、オレは畳の上に大の字になって寝転がる。天井を見つめながら、明日のことを考える。二人きり……か。
「悠真、電話終わったの?」
「終わったよー」
お袋が居間から顔を出して言った。
「白石さんとこの娘さん? 凪咲ちゃんだっけ?」
「うん」
「いい子そうね。お母さん、会ってみたいわ」
「は? ! 世界が破滅してもやめてくれ!」
まだ中学生なのに家族ぐるみの付き合いなんて、冗談じゃない。話がややこしくなる。両親はオレ(前世の)よりも年下だが、同い年だからってこの時代の人にハーレムなんて理解できるわけない。
あ、これは現代でも同じか。
ともかく、即却下した。
■1月26日(日)AM10:00
「ごめんくださーい」
オレは凪咲の家の前で挨拶をする。
玄関の戸が開く音がして、凪咲が顔を覗かせた。
「あ、悠真! おはよ♡」
ピンクのセーターにデニムのスカート。普段の制服とは違う凪咲の姿に、一瞬ドキッとする。露出が多いわけでもないのに、首元から覗くブラウスの襟元が妙に色っぽい。
いかん。落ち着け。私服姿なんて散々見て来たじゃないか。佐世保のデートもそうだし、夏祭りや海水浴のバイトで見てきたぞ。でも、自宅でのシチュエーションは、美咲と同じで新鮮だ。
前に純美の家で勉強した時は、美咲と凪咲、純美とオレの4人だった。
二人っきりってシチュエーションが12脳をマヒさせているのだろうか。
「お、おはよう」
声が裏返りそうになるのを必死で抑える。凪咲は両手を後ろで組んで、つま先を内側に向けながら立っている。いつもより女の子らしい仕草だ。
「あの、入って」
頬を染めながら言う凪咲。
髪も普段より丁寧にセットしてある。いつもはピンと伸びた黒髪を、今日は少し巻き気味にしているようだ。香りも違う。シャンプーの匂いじゃない。かすかに甘い香水の香りがする。
私物? いや母親の?
玄関に入ると、家の中が妙に静かだ。
「えっと、勉強は私の部屋で、いい?」
凪咲の声が少し震えている。
「あ、ああ」
やべー。なんか起こるような予感しかしない。
待て待て、51脳よ、12脳によーく言い聞かせるんだぞ? あいつは暴走するからな。それにここは人の家だ。
ああ、早く一人暮らしがしたい! そうすればこんなこと考えなくてもいいのに!
「お茶、入れてくるね」
階段を上がる前に、凪咲がそう言って台所に向かう。スカートが揺れる度に、生脚が目に入る。寒い季節なのに、わざわざスカートなのは……。
いーや、考えすぎだ。凪咲はただ可愛く見られたいがために、こんな格好をしているんだ。『それ』を期待しての格好じゃない。美咲だってそうだったじゃないか。
人生経験は豊富だが、女性経験は人なみで豊富かどうかはわからん。だけど学生時代のラブラブエピソードなんて皆無だから、それに12脳が反応してるんだろう。
一つ一つの表情や仕草が真っ直ぐに心に響いてくる。
「お待たせ」
凪咲が緑茶の入った湯飲みを持ってきた。手元が少し震えているのが分かる。
「じゃ、上がろっか」
そう言って階段を上がり始める凪咲の後ろ姿を見つめながら、オレは深いため息(?)をつく。
こんな状況で本当に勉強なんかできるのか……。
「ここ、私の部屋」
凪咲が扉を開ける。部屋の中は驚くほど綺麗に片付いている。女子中学生の部屋にありがちな可愛らしい小物や、アイドルのポスターなどは控えめだ。机の上には教科書やノートが整然と並べられている。
オレの部屋とは大違いだ。音楽雑誌にカセットテープやウォークマン、スコアやあとは……ああ、エロ本もある。12歳、よくあんなんで……とは思うが、若いってのを実感する。
「えっと、座って」
カーペットの上にクッションが二つ。隣り合わせだ。やけに近い。
「じゃあまず、どれからやろうか」
「これ、全然分かんなくて……」
凪咲が見せたのは数学の比例のグラフの問題だ。座標平面上に点がいくつか打たれていて、その点を通る直線を引く問題。
よし、これなら簡単に説明できる
「えーと、まず y = ax のグラフは原点を通るんだよな。で、この(2, 6)の点を通ってるってことは……」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて凪咲がノートを広げる。シャープペンを持つ手が少し震えている。
「そう。aは比例定数って言って……」
そんなこんなで数学の問題をいくつも教えながらオレは考えた。
……よくよく考えたら健全な中1男子がこんな状況で耐えられる訳がない。ぶっちゃけ中高生男子の脳内なんて、女とヤル事だけだぞ。オレは(12脳は)横に座った凪咲の肩を抱いて顔を寄せてキスをした。
「あ……だめ悠真♡ 今日は勉強……」
凪咲はそう言いながらも抵抗しない。
「だって凪咲のスカートが短すぎるから……」
それがなぜこの行為を正当化させるのか意味不明だが、12脳に体を支配されたオレはもう一度唇を近づける。
ああ、やべぇ! 止まらん!! もうどうにでもなれ!
普段なら、というか今までの凪咲なら、流れるままに身を任せていた。でもなぜか今日は違ったのだ。前回までの事はヤラせてくれたのに、その先に進むのを拒んだんだ。
前回ってのは胸もんで下着の上から顔をくっつけたり手を触れたりって事ね。もう少しで凪咲を抱えてベッドに寝かせて、それからオレも潜り込む……寸前でストップがかかったんだよな~。
勉強をする、という建前からなのか、それとも別に理由があるのか。
とにかくオレはそれ以上は無理強いはしなかった。察したというか危機察知能力というか。これ以上無理にやれば、オレという人格を否定されるような気がしたんだ。
要するに愛想をつかされる、って意味ね。
ヤル事しか考えてないとか、そういう風には思われたくない。スマートにいかなくちゃ。機が熟すまで待つしかない。
それにしても微妙な駆け引きというか、距離感というか段階を経てというか、そういうのが凪咲的にはあるんだろうか。
急いては事をし損じるっていうことわざもある。
まあ、逃げやしないさ。ゆっくり、やっていこう。これ、みんな(純美も礼子も)そうなんだろうか。
12脳のオレはやりたくてたまらない。それを51脳が抑えた。
次回 第53話 (仮)『1組と2組、男女別の性教育』
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