人物紹介④(127話~272話)

( )内は転生時、永禄4年(1561年)時点での数え年齢です。基本的に架空・史実の両方記載しますが、史実の人物の生没年、内容、記載の有無は筆者の任意なのでご了承ください。※は史実人物(本作ストーリー上内容修正あり)

龍造寺政家(5)※純家/太郎四郎
肥前国の戦国大名。龍造寺隆信の嫡男。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。官位は従四位下・侍従、肥前守。

龍造寺長信(23)※
龍造寺周家の三男。隆信の弟

龍造寺信周(29)※
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。須古鍋島家初代当主。兄の龍造寺隆信と共に各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。周家の次男。隆信の弟。

高田弾正(31)※
筑後川にて水運の取りまとめを行っている豪族。小佐々の将来性を見越して、大友から乗り換えようとする。

石井信忠(28)※
肥前国有明海(筑紫乃海)の相応津・今津の水運を取りまとめる一族の当主。龍造寺隆信の曽祖父、家兼の時代から経済にて龍造寺家を支えてきたが、小佐々の傘下に入る。※名前は架空ですが、同じ苗字の豪族は実在しました。

沢森 吉法師(1566~)
沢森家三男。

沢森 愛(1566~)
沢森家次女。

沢森 静(4)
沢森利三郎の長女。龍造寺純家の妻。

松浦(沢森)綾(8)
松浦隆信の娘。沢森治郎の妻

神代刑部大輔長良(24)※
肥前三瀬城主。神代勝利の嫡男。父の死後、龍造寺隆信と戦い続け、作中では塩田津の湊戦役に従軍する。

二条藤子(8)
摂関家、二条晴良の娘。本来ならとっくに婚儀の話が進んでいるはずが、本人の希望と父親の溺愛で遅れていた。話が持ち上がった時、藤子はすんなりと受け入れる。不思議な縁でもあったのだろうか。小佐々弾正大弼純正の側室。

戸次鑑連/立花道雪(49)※
豊州三老。宗麟の重臣。主に軍事面を担当。戦国時代の豊後大友家家臣であり、大友家の隆盛から斜陽まで一身に背負って奮戦した名将である。

臼杵鑑速(41)※
豊州二老(三老)宗麟の重臣。主に軍事・政務面を担当。外交事務を担当する一方で、肥前方分を務めて主家の国政に参画する。また筑前平定軍の総大将を務めるなど、各方面で活躍した。

吉弘鑑理(43)※
豊州三老宗麟の重臣。主に軍事面を担当。豊後大友家の忠臣と誉れ高き吉弘一族の長にして、豊後三老に数えられた人物であり、生涯のほとんどが戦いの連続だった武将。

吉岡長増(59)※
豊州二老。宗麟の重臣。主に政務を担当。知略に優れた。大友家と毛利家が筑前で対峙した際は、大内義隆の従兄弟・輝弘を扇動して周防に侵攻させ、毛利軍を撤退させた。

角隈石宗(41)※
大友家臣。主君・宗麟の軍師を務めた。戸次鎮連を弟子に持つ。宗麟の日向遠征に際して延期を進言したが拒否されたため、秘伝の書を焼いて出陣、戦死した。

織田信長(27)※
戦国の三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立した。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。

岡甚右衛門(27)※
肥前佐世保の井手平城主。小佐々が針尾島を平定した1563年(永禄六年)の仕置の際、早岐甚助、八並舎人、遠藤千右衛門、堀江大学とともに小佐々に投降した。経済産業局の局長。貿易の責任者。

尾和谷弥三郎(18)※
もともとは西郷家臣で、西郷家が大村家の三城城攻めの際に、指揮を取った尾和谷軍兵衛の息子である。父親である軍兵衛はさきの高城城防衛戦にて討ち死にしている。博識で判断力もあるので、評定衆(戦略情報会議員)として取り立てた。直茂も一目置いている。戦略会議室メンバー

小代実忠(41)※
北肥後小代城城主。同じく北肥後の赤星陣営に属しているが、地理的に筑後国衆や隈部家の影響を受ける。勢力規模が小さいので、小佐々との通商・同盟には積極的。

長嶺親雲上(ながみねぺークチー・正四品・31)
琉球王国外交部署、鎖之側の次官である日帳主取。一般士族の叩き上げ。伊地親雲上の弟子的存在。

伊地親雲上(いじぺークチー・正三品・40)
琉球王国外交部署、鎖之側の長官。一般士族の叩き上げ。長嶺親雲上の師匠的存在。

相良義陽(17)※
戦国時代から安土桃山時代にかけての肥後の武将、戦国大名。相良氏の第18代当主。初名は頼房で、将軍・足利義輝の偏諱を受けて、義陽とした。遠江守、従四位下、修理大夫

深水長智(29)※
相良氏の家老、歌人。三河守。剃髪して三河入道、宗方(そうほう)または休甫を称した。父は深水頼金、子は深水頼則。養子は深水頼蔵。三河守。主に外交を担当した。何度も相良家を滅亡から救う。

早岐甚助(30)※
肥前佐世保の早岐城主。小佐々が針尾島を平定した1563年(永禄六年)の仕置の際、岡甚右衛門、八並舎人、遠藤千右衛門、堀江大学とともに小佐々に投降した。難民管理局の局長。

八並舎人(31)※
肥前佐世保の日宇城主。小佐々が針尾島を平定した1563年(永禄六年)の仕置の際、早岐甚助、岡甚右衛門、遠藤千右衛門、堀江大学とともに小佐々に投降した。内務省官僚。

遠藤千右衛門(28)※
肥前佐世保の井手平城主。小佐々が針尾島を平定した1563年(永禄六年)の仕置の際、早岐甚助、八並舎人、岡甚右衛門、堀江大学とともに小佐々に投降した。工部省 国土流通整備局の局長。

毛利元就(64)※
戦国時代の武将・中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。毛利氏の第12代当主。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。

二条晴良(35)※
戦国時代・安土桃山時代の公卿・藤氏長者。二条家14代当主。父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女・経子。後明珠院と号す。関白を歴任。近衛前久のライバルで純正の妻藤子の父。

三好義継(13)※
戦国時代の武将・大名。河内国の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれる。

松永弾正久秀(53)※
戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名である。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通。

山中幸盛(16)※
戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。

甲斐宗運(親直51)※
戦国時代の肥後阿蘇神社の大宮司である阿蘇氏に仕えた。生涯六十余度の合戦に不敗の伝説を持つ。「宗運」は出家後の名乗りであり、本名(諱)は「親直」。
耳川の戦いで敗北した大友氏が勢力を弱める中、島津の肥後侵攻と肥前の龍造寺氏の肥後国北部への圧力に悩まされる。離反者が相次ぐ大友家からは援軍が見込めぬと判断し、独断で大友家を離れる。硬軟織り交ぜた外交で島津と龍造寺を相手に亡くなるまで独立を保った。

阿蘇惟将(41)※
肥後国の戦国大名。阿蘇氏(阿蘇神社大宮司)。島津氏や肥前国の龍造寺氏らの圧迫を受けて苦しんでいたが、甲斐宗運を重用して豊後国の大友氏らと手を結んで、独立の維持を図った。その後も他の勢力と巧みに手を結びながら、独立を終生維持した。

深作宗右衛門兼光(35)
深作次郎兵衛兼続の嫡男。陸軍混成第四旅団長。大佐

神代貴茂(31)※
肥前島原神代城主。陸軍混成第五旅団長(准将)で大友領侵攻第五軍指令。

立花鑑載(41)※
立花氏の第7代当主。筑前立花山城主。永禄七年と永禄十一年に大友氏に反乱する。
小佐々家大友領侵攻時第一軍指令。

高橋鑑種(32)※
戦国時代の武将。左衛門尉,三河守。法名宗仙。大友氏の家臣一万田親泰の子で、高橋氏の養子となる。弘治3(1557)年の大内義長の滅亡後,筑前岩屋城・宝満城(福岡県太宰府市)の城督となり、大友氏の筑前支配の要となる。永禄9年(1566年)大友氏に反旗を翻す。小佐々家第二軍指令。

蒲池鑑盛(42)※
筑後国南部の戦国大名。蒲池氏16代・後蒲池7代当主。諱の「鑑」の字は、父蒲池鑑久同様に大友義鑑から賜ったもの。法名は宗雪(そうせつ)。大友家に忠義を尽くした。小佐々家第三軍指令。

筑紫惟門(31)※
筑紫氏は足利直冬の末裔とも少弐氏の庶流ともいう。筑前国・肥前国にかけて勢力を築いた大身。小佐々家第四軍指令。

宗像氏貞(16)※
宗像大社第79代大宮司。居城は蔦ヶ岳城。宗像氏本流の最後の当主。第一軍副将。

秋月種実(13)※
戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。最終的には筑前、豊前、筑後国北部に36万石にも及ぶ勢力範囲を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。第二軍副将。

原田隆種(48)※
原田氏(大蔵氏嫡流)第76代当主。筑前国高祖山城城主。原田興種の子。正室は大内義隆(あるいは大内義興)の娘であり、主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。第一軍副将。

三原紹心(31)※
紹心は法名。高橋紹運(吉弘鎮理)の家臣。本郷城(三原城)主。作中では下高橋城主。

吉弘鎮理(13)※
豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。作中では三原城主。

仁保隆慰(38)※
大内義隆・義長に仕えた。大寧寺の変では陶隆房(陶晴賢)側の主要人物。天文24年(1555年)、厳島の戦いで陶晴賢が自害し毛利氏の防長経略が始まると毛利元就に降る。その後の周防奉行を務めた後、門司城番となり企救郡代官職を兼務した。

北川長介(31)※267話 清純
広田城の戦いにおいて平戸方として活躍したが、捕縛された。その際、敵兵を騙して船上に出て、海に飛び込み、可雲(味方の城主)の首を持ち、向こう岸へ飛び上がった。その後早岐の城に入り、大村方の悪口を言い、敵である大村方の與市は大いに怒ったという。その後、長介は地域の人々から称賛され、有名人となったと言われている。

渡辺宗覚(30)※272話
豊後臼杵城主大友宗麟の家臣。明で大砲の鋳造法、操術をまなぶ。のち徳川家康につかえた。

 

 

 

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