第338話 『ロシアの対日、対英戦略』

 元治元年七月三日(1864/9/4) 箱館

「クリミアではイギリスに屈辱的な敗北を喫しましたが、まさか日本がイギリスを打ち負かすとは……。日本にはこれまで散々な目に遭わされてきましたが、今回の件は今後の対日外交の指針を見直す必要があるかもしれません」

 駐日ロシア領事であるヨシフ・ゴシケーヴィチは3か月前に帰国申請していたが、本国にいい手土産ができそうでホクホク顔である。先日はロシア帝国領のアラスカの売却話もでた。

 その交渉があってもなくても、イギリスのアジアでの影響力を低下させる意味で、あの海域の遊弋ゆうよく(行ったり来たりすること)による観戦は不可欠だったのだ。

「ええ閣下、私もあれほど見事に日本艦隊がイギリス艦隊を破るとは思いも寄りませんでした」

 ゴシケーヴィチの会話の相手は、馬関海戦を観戦したロシア帝国太平洋艦隊司令官A・A・ポポフ少将である。

「これで、たとえ一時的だとしても、極東におけるイギリスの影響力は低下するでしょう。フランスやアメリカ、オランダの動向は不明ですが、プロイセンなども進出してくる可能性があります。わがロシアとしては、現在の権益を確固たるものにし、さらなる南下も視野に入れるべきではないでしょうか。幸いにもアメリカの内戦は、私の見立てでは北軍の勝利が確実です。南軍の勝利は、よほどの幸運がない限り難しいでしょう」

 ポポフの言葉にゴシケーヴィチは同意しながら、笑顔で答える。

「確かに、この戦況は我々にとって好機だ。しかし清国における権益は……慎重に見極めていかなければなりませんね。どうやってイギリスの権益を奪っていくか。イギリスもこのまま座して死を待つわけではないでしょう。それよりも日本の急速な近代化と軍事力の向上は驚くべきものです。我々も油断はできません」

「Нет-нет-нет (Nyet-nyet-nyet)」

(いやいやいや……英語で言うnon-non-non……人差し指を左右に振る仕草)

 そう言ってポポフは反論する。

「技術力や海軍力は、日本と言うよりもвладения Омура (vladeniya Omura・大村藩)でしょう。日本全体としてはまだその技術は児戯に等しい。少なくともわが海軍と日本(大村藩ではなく)が互角に戦うにはあと40年、どう短く見積もっても20年はかかる。しかし技術力において大村藩は……あくまで技術力ですが、イギリスと同等かそれ以上と考えても良いでしょう」

「なんと!」

 ゴシケーヴィチは驚きを隠せない。何度も会談を重ねた次郎率いる(純顕すみあきだが)大村藩の実力がこれほどとは……。

「そこまで、大村藩はあるのですか?」

「小さいとは言え領主単独で14隻の軍艦。それにもっとも大きな軍艦は鋼鉄製です。これに工業力、生産力が加われば……そら恐ろしい限りです」

 ポポフは断言した。間近で見たクルップ砲やアームストロング砲の威力はポポフを確信させるのに十分だったのだ。

「では日本とは敵対するのではなく、親密な関係を築いていく方がよいか……。もとより現在は国境問題も解決し、新たな問題でも起きない限り関係が悪化することはあるまい。アラスカの売却がうまくいけば双方にメリットがあるだろう。大村藩とは技術的なつながりを持ちたいものですね」

 ゴシケーヴィチの見解に、ええ、そのとおりです、とポポフは答えた。さらにポポフは続ける。

「大村藩との技術交流は確かに魅力的です。彼らの技術を盗めるだけ盗むのが良いでしょう。さらに極東に目を向ければ、イギリスの敗北で生まれた力の空白を、我々だけでなく他の列強も狙っているはずです。特にフランスの動きには注意が必要でしょう」

「フランス、確かに気がかりですね。わが国は樺太と対馬の件で、イギリスを含めた4国より日本とは疎遠です。この機会に日本と親交を深める必要がありますな。いきなり大村藩と直接的な交渉をすれば警戒されるでしょうから、幕府を通じた外交チャンネルを維持しつつ、徐々に関係を深めていく方が賢明かもしれません」

 ゴシケーヴィチは眉をひそめ、ポポフの言葉に応えた。

「同感です。ところで領事閣下、アメリカの内戦終結後の動向に関してはどうお考えですか?」

「北軍勝利後、アメリカは急速に力を回復するでしょう。太平洋への関心も必然的に高まります。我々としては、アラスカ売却を打診しておりましたが、日本がそれに先駆けて購入を打診してきました。戦争は北軍優位に進んでいるとはいえ、現状では日本の条件がよければそれをのみ、日本に売却をしたほうが財政の健全化が図れると考えています」

 南北戦争が終結し北軍が勝利した後、戦前の状態に戻るまでどれほどの期間を要するのか? むしろ条件が良ければ日本に売却する方が得策ではないだろうか。アメリカとの交渉は5年前から進展がない。

「これに関しては同時進行、例えば本年中にでも日本から良い条件がでれば……本国の判断ではありますが、売却するでしょう。アメリカからの返事は早くても1~2年後でしょうからね」

 現在の状況から判断すると、ゴシケーヴィチはアメリカよりも日本を有力な取引相手と考えているようだ。今回の海戦での協力とアラスカの売却を通じて、日本との関係改善を目指しているのだろう。

「アラスカを日本に売却することに関して言えば、軍事的にはメリットがありますね。クリミア戦争時はブリティッシュ・コロンビア植民地からアラスカへの侵入を危険視されましたが、日本に売却してしまえば、その心配は未来永劫ない」

 政治的・経済的に分析するゴシケーヴィチと軍事的に分析するポポフの考えが一致した。

「いずれにしてもそれは日本側の条件によるので、近々使者を派遣しようと考えています。極東における対イギリス・フランス・オランダ・アメリカの戦略は本国が考えることですから、あまり……。ただ、他もイギリスを標的にするでしょうから、わが国が南下政策を取ったとして、特に問題はないでしょう」

「そうですね。あと列強の動きとすれば……」

 ポポフがゴシケーヴィチの発言をうけて、続けて予測した各国の動きは次の通りだ。




 ※フランス
 インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)における植民地支配の強化。
 タイへの影響力拡大の試み。
 中国南部への進出を強化。
 
 ※オランダ
 インドネシア(蘭領東インド)における支配の強化。
 マラッカ海峡周辺での海軍プレゼンスを増強。
 東南アジア域内貿易への関与拡大のためのシンガポールへの影響力拡大。

 ※アメリカ(南北戦争終了後)
 フィリピンとの自由貿易を拡大し、東アジアへの軍事・経済的進出を強化する可能性。
 中国における「門戸開放政策(自由貿易・機会均等・中国領土の不可侵)」の推進。
 太平洋における海軍力の増強。




「ふむ……」

 その後も2人は領事館の執務室で対英、対日戦略について話し合った。




 次回予告 第339話 『対英、対列強会議』

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