第1話 『転生?』

 1589年2月28日 オランダ アムステルダム <フレデリック・ヘンドリック>

 重たい目をゆっくりあけた瞬間、ガン! と痛みが走った。

 ズキンズキンと頭が痛み、喉はカラカラに乾いていた。薄暗い天蓋(ベッドの天井にあるフリルのカーテン状の物)の下で苦しげな声を出すと、男の声が聞こえた。

 初老の紳士姿の男が立っている。

「殿下、目を覚まされましたか?」

 殿下? いったい誰の事を言っているんだ? 意味がわからない。それに……どこだ、ここは?

 オレが現状の把握と情報収集に努めていると、部屋の外から大きな声が聞こえる。

「フレデリック! フレデリック! 無事なのか!」

 バタンと大きな音を立てて部屋に入ってきた男は、これまた中世の貴族風の服を着ている。なんだここは? ドラマの撮影現場か? それにフレデリックとは、誰だ?
 
「フレデリック! よかった、無事だったのだな」

 部屋に入ってきた男は、ほっとした表情で近づいてきた。服装や言葉遣いは、まるで中世のヨーロッパの貴族のようだ。オレは困惑しながら周りを見回す。

 豪華な調度品、重厚なカーテン、そして自分が横たわっている大きな寝台。どう見ても現代の物ではない。

「あの、すみません」

 オレは喉の渇きを押し殺しながら言った。

「ここはどこで、あなたがたは誰なんでしょうか?」

 男は驚いた表情を見せ、初老の男と顔を見合わせた。

「フレデリック、冗談はよしてくれ。私だ、お前の兄のマウリッツではないか」

 マウリッツ?  フレデリック?  オレの頭の中で混乱が渦巻いた。

「申し訳ありませんが、本当に何も覚えていないんです。私は誰なんでしょうか?」

 マウリッツと呼ばれた男は、深刻な表情で初老の男、恐らく執事か召使いなのだろう。その男に向き直った。

「ヤン、どうなっているんだ?  昨夜の事故の影響か?」

 初老の男、ヤンは首を振った。

「公爵様、記憶喪失の可能性があります。昨夜の落馬の衝撃が予想以上だったのかもしれません」

 オレは混乱しながらも、状況を整理しようとした。どうやらオレの名前はフレデリックで、目の前の男の名はマウリッツ。オレの兄貴らしい。そして昨夜、オレは馬から落ちて頭を打ったようだ。

「すみません、マウリッツさん……兄上。私の記憶が曖昧で……ここはどこなのでしょうか?」

 兄貴(実感が当然湧かないが)は深いため息をついた。

「ここはアムステルダムだ。お前の……いや、我々の故郷だ。ホラント(オランダ)の中心都市だ」

 ホラント? アムステルダム?  オレの頭の中で現代の地図が浮かんだが、すぐに消え去った。目の前の光景は、明らかに現代のオランダではない。

「今は……何年なんでしょうか?」

 オレが恐る恐る尋ねると、兄貴(マウリッツ)は眉をひそめた。

「1589年だ。お前、本当に何も覚えていないのか?」

 1589年。確か……オランダ独立戦争の最中じゃないか? オレの頭の中で何かが弾けた。これは夢?  タイムスリップ? それとも……。

「私は……(……もしかして? 思い出したぞ!)フレデリック・ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウなんですか?」

 マウリッツの顔が明るくなった。

「そうだ! お前はオラニエ家の当主である私、マウリッツ・ファン・オラニエ=ナッサウの弟だ。記憶は曖昧でも、自分の立場は覚えているようだな」

 オレは頭を抱えた。歴史の教科書で読んだ名前。オランダ独立戦争の英雄の1人。その人物の身体に、現代の意識が宿っているのか?

 いわゆるオラニエ公だが、オラニエ公ウィレム……オラニエ公マウリッツ……オラニエ公フレデリック……ん? 歴史の教科書ってこんなに詳しく書いてあったか?

「兄上、申し訳ありません。少し休ませてください。頭がまだ混乱していて……」

 兄貴(……なん、だよな?)はうなずき、理解を示した。

「わかった。ゆっくり休むがいい。お前の回復が何より大切だ」

 兄貴はそう言って威厳のある顔をニッコリゆがませて部屋を出て行った。




 さて……あいた! ……かゆい! なんだ、どうした? 虫にでも刺されたのかな?

 ……まじか! シラミだ、ノミだ、ダニだあ――――――!

 オレは大声を出しながら服を脱ぎ、執事のヤンに伝えた。

「大至急風呂を沸かして。それからこの布団? いや、寝具類は全部天日干ししてくれ! 後は窓を開けて、服も……天日干ししてくれ!」




 ■1か月後 オランダ アムステルダム

 あれから1か月がたったが、オレの身の回りでは変わった事がない。

 毎日風呂に入り、雨の日以外は布団を干し、服の洗濯をこまめにやってもらう事だったが、風呂に入れば風邪を引く、病気になると言われ、布団や洗濯はなんでそんな事をするのか? と怪しまれた。

 すべてが臭い。香水でごまかしているようだが、耐えられないのだ。食べ物もどういう風に作っているのか厨房ちゅうぼうに行って確認したほどだ。

 まじで、いろんな事に耐えられない!

 現実を受け入れられない。ここが16世紀のオランダなんて、信じられないのだ。

 そしてこの1か月間、自分が何者で、ここに来る前に何をやっていたのか考えた。ゆっくりと、しかし確実に思い出したのは、オレの仕事は外交官、しかも大使だったことだ。

 駐オランダ日本大使で、任期が延びに延び、いい加減帰国の申請を出していたのだった。

 オランダ独立戦争やオラニエ公の事を詳しく知っていたのも、オランダ語が話せたのもそのせいだ。現代のオランダ語と多少違うので戸惑ったが、人に聞かれたときは『記憶障害っぽい』で押し通した。

 どうやら転生したらしいが、なんで転生したのか? どうやって転生したのかなんて、皆目見当がつかない。とりあえずは異世界放り投げパターンじゃなくて良かった。貴族の家なら多少のワガママは許されるだろう。

 と言うことで、オレは現在(1589年)のオランダの状況を聞きまくって状況の把握に努めた。




 ・ネーデルランド17州が統合してネーデルランド連邦共和国として存在。(史実では南部は連邦を離れてスペイン側へ)
 ・カトリックとプロテスタントの対立はあれど、お互いに親和政策をとって共存している。(プロテスタントは北部・カトリックは南部)
 ・南部の産業特に織物業と北部の貿易業の相乗効果で経済が発展中。(北部の貿易・海運業が盛ん)
 ・フランスでアンリ4世が即位し、スペインに宣戦布告。そのため対スペイン戦線が有利に。(正式な戴冠は4年後・スペインに宣戦布告はしていないが、スペインの支援下のカトリック勢力と転戦)
 ・オランダ語、フランス語、ドイツ語が公用語に。(史実ではオランダ語)




「うーん、よくわからんが、いちおうオランダ的にはいい感じの国威なのかな? けっこう領土も広いし……ん? ちょっとまて! 17州だって?」

 おかしい! オランダの州は南北ホラント・ゼーラント・ユトレヒト……全部で12のはずだ。17って何だ? それに親和政策? アンリ4世が即位? なんかおかしいぞ。

 まて、兄上に聞いてみよう!

「ヤン! ヤンはどこだ! ?」

「はいフレデリック様、ここに」

「ヤン! 兄上は今どこに?」

「公爵様はいま出発の準備で書斎にいらっしゃいます」

「出発ってどこかに出かけるの?」

 ヤンは物腰柔らかく、丁寧に答えてくれた。

「連邦共和国会議のためにブラバントのアントウェルペンへ出発いたします」

「え? アントウェルペンだって? (……日本ではなじみがないが、アントワープのオランダ語発音だ)」

 確信した。オレが知っているオランダじゃない。知っている16世紀のオランダじゃない。アントワープはベルギーじゃないか!

 転生しただけじゃなくて、改変も起こっているのか? なんでだ?




「兄上! 兄上!」

 オレは兄貴の書斎のドアをドンドンと勢いよくたたく。

「フレデリック、どうした? そんなに慌てて」
 
 ドアが開き、兄貴が顔を出した。いつもの冷静沈着な表情だ。

「兄上、今のネーデルランドの状況をちょっと聞きたいんだけど……」

 兄貴は変な顔をした。
 
「お前、また記憶が飛んでいるのか? もう一度医者に診てもらったほうがいいぞ」

「いや、そうじゃなくて…… 確認したいんだ。17州って本当? それに、カトリックとプロテスタントが共存しているって?」

 兄貴はため息をついた。

「フレデリック、お前本当に大丈夫か? 確かに、17州が統合してネーデルラント連邦共和国になったのは周知の事実だ。カトリックとプロテスタントの共存政策も、お前は積極的に支持していたじゃないか」

 オレは混乱した。これは明らかに自分の知っているオランダとは違う。

「それで、アンリ4世がスペインに宣戦布告したって本当?」

「ああ、そうだ。フランスとの同盟は我々にとって有利に働いている。お前、本当に何も覚えていないのか?」

 まじか……こりゃあ単なる転生じゃない。

 どうやらパラレルワールドみたいなところに来てしまったらしい。もっと話がややこしい。いよいよ戻れないかもしれない。いや、ただの転生でもタイムスリップでも……戻れる保証はないが。

「兄上、ごめんなさい。少し頭が混乱してて……」

「お前、無理するなよ。アントウェルペンへの出発は延期してもいいんだ」

 兄貴は心配そうな顔でオレを見た。

「はい、大丈夫です。それより兄上、お願いがあるのですが……留守の間、ヤンや副官(総督補佐)の方々に政治の事を教えていただいてもよろしいでしょうか?」

 兄貴は目を丸くした。

「お前が政治? 珍しいな。いつもは全然興味なかったじゃないか」

「はい……いろいろと考える事がありまして。この国の事、もっと深く知りたいと思ったんです」

 兄貴は不思議そうな顔をしたが、すぐにほほえんだ。

「そうか。その好奇心は大切にしろよ。ヤンたちには基本的な事から教えるよう言っておこう」

「ありがとうございます、兄上」

「ただし、無理はするなよ。お前はまだ6歳なんだ。遊ぶ時間も大切にしろ」

「はい、わかっております。ご心配なく」




 オレはまず、さらなる現状の確認と、戻れないなら快適な生活を目指すために、できる事をやろうと決めたのだった。




 次回予告 第2話 『6歳の幼児の限界』

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