元治元年九月六日(1864/10/6) フランス公使館
フランス公使館の応接室で、レオン・ロッシュは上野介と次郎を前に、優雅な身振りで紅茶を注ぎながら話を切り出した。
「さて、ミスター小栗。本日のご来訪の目的をお聞かせください」
小栗は背筋を伸ばし、落ち着いた声で返答した。
「フランス政府からの借款と技術供与について、具体的な協議をいたしたく参上しました」
ロッシュは興味深そうに眉を上げ、紅茶を一口飲んで尋ねる。
「ほう……それは興味深い提案ですな。どの程度の規模と条件をお考えでしょうか?」
「まず借款につきましては、500万ドル程度を想定しております。返済期間は10年、金利は年5%程度でいかがでしょうか」
小栗は用意した書類を取り出し、丁寧に説明を始めた。ロッシュは書類に目を通しながら、慎重に言葉を選ぶ。
「なるほど。……ただ、500万ドルという額は相当な規模です。フランスとしても貴国を支援する意思はありますが、いきなり全額は難しい。……まずは、そうですね。240万ドルを貸し付け、その返済状況やその他の条件を見ながら、残りの260万ドルの貸付けを検討するのはいかがでしょうか」
史実では上野介は、横須賀の製鉄所(造船所)建設のために慶応元年にフランスから240万ドルの借款を受けている。製鉄所と造船所の計画がどこからか漏れていたのだろうか。
小栗は提案を聞き、ほっと安心して静かにうなずいた。
「ロッシュ公使の提案、誠にありがたく存じます。段階的な借款はわが国の財政状況にも適していると考えます」
実はこの時点で次郎が疑問に思っていたことがある。イギリスとの戦争があり、フランスに対して、水面下での協力の代償としての借款や技術導入は理解できる。
では、戦争がなかったらどうだろうか?
現実的に考えると、大村藩の製鉄・造船技術はイギリスやフランスと同等か、上回っている。製鉄に関してはベッセマー転炉からトーマス転炉へ切り替わり、新たに開発した平炉と併用していたからだ。
生産量に関して言えばイギリスやフランスには及ばなくても、技術導入だけなら大村藩から導入すればいい。
なぜだ?
1.大村藩の影響力が強くなりすぎることを懸念している?
確かに大村藩だけに過度に依存すれば、幕藩体制のバランスを崩す恐れがある。
2.幕府の威信のため?
幕府が直接外国と交渉し、技術を導入することで、近代化の主導権を握ろうとしているのだろうか? 確かにそうすれば、失墜した威信を取り戻すかもしれない。……いまさらではあるが。
今の状態が一番良いのだ。今後は合議制をもっと強めていって、最終的には徳川には駿府藩くらいになってもらうのが一番良い。
3.国際関係の構築?
確かにフランスと関係を強めれば、単なる技術導入だけではなく、国際的な交流を深めるチャンスになるかもしれない。
4.技術の多様性?
大村藩の技術が優れていても、フランスの技術にも独自の利点があるかもしれない。技術の多様性を確保することで、より柔軟な産業発展を期待しているのだろうか?
これは確かに得手不得手を考えれば、欧米の方が優れている点もあるだろう。
5.長期的な戦略?
フランスとの関係構築を通じて、より広範な知識や情報を得ることを目指しているのだろうか。フランスに限定せずに、西洋全体の文化、制度、思想など……。
6.他の藩への忖度?
大村藩の技術を幕府が導入したり、全国展開したりすることに他の藩が反対するかもしれないのを危惧しているのだろうか。大村藩が幕府の政権中枢へ入り込むことを良しとしない藩がいる?
もともと純正も次郎もそんなつもりはないが、結果的にそうなっている。
問題は1と2と6だな、と次郎は結論を出した。
同時にこれが、仮にそうだったとして……悪い方へ進まないことも願ったのである。
「240万ドルですか……」
上野介は頭の中のソロバンをはじいている。
「それから当然ですが、担保はいかがなさいますか?」
計算が終わった上野介は即答する。
「担保としては、生糸を貴国に優先して販売したいと考えております。これは権利として、フランスの絹織物産業にとっても有益かと考えております」
ロッシュは興味深そうに聞き入っている。
実際に当時のフランスやイタリアにおいては蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足していたのだ。そのためこの担保はかなり有益なものでもあった。
「生糸の優先的供給権ですか。確かに魅力的な提案ではありますが、具体的にはどういった形で担保となるのでしょうか」
「通常の取引は従来通り行われます。ただ、万が一返済が滞った場合は、生糸の生産や取引に優先的な権利が発生し、返済に充てられる仕組みを想定しております」
上野介の回答にロッシュはうなずきながらも、さらなる質問を投げかける。
「なるほど。それは貴国の国内需要や、他国の購入量にかかわらず、ということですかな?」
「その通りです」
「ふむ……。ただ、生糸だけで240万ドルの担保として十分でしょうか。もちろん生糸の優先的供給権は魅力的だが、他に何か考えはありますか」
「製鉄所と造船所の将来的な収益も担保の一部として考えております。さらに、横須賀製鉄所で生産される鉄鋼製品の一部をフランスに優先的に供給いたします」
「ほほう……」
ロッシュの表情が明るくなり、興味を示した。
「それは興味深い提案ですね。生糸、施設収益、そして鉄鋼製品の優先供給権。これらを組み合わせれば、十分な担保になりそうです」
三者は互いに顔を見合わせ、合意に達したことを確認し合った。
上野介は最後に確認する。
「では、これらの担保案で基本的な合意といたしてよろしいでしょうか」
ロッシュは満足げにうなずいた。
「結構です。詳細は後日詰めることとしましょう。これで借款の基本的な枠組みが整いましたね」
会談は予想以上に順調に進み、3人の表情には達成感が浮かんでいた。
しかし次郎の心の中では、この取引がもたらす国内外の影響について複雑な思いが渦巻いていた。この借款が日本の近代化を加速させる一方で、新たな政治的・経済的課題をもたらす可能性はないだろうか……。
上野介は話題を技術供与に移す。
「借款と並行して、造船技術と製鉄技術の導入も希望しております。特に横須賀製鉄所の建設に関心があります」
「フランスの造船技術は世界最高峰です。ヴェルニー技師を派遣し、最新の設備と知識を提供できます」
ロッシュが目を輝かせ、熱心に説明を始めると、次郎は製鉄技術についても尋ねる。
「大型製鉄所の設立に関する支援も可能でしょうか」
「もちろんです。クルーゾー製鉄所の技術を基に、最新の設備を提供できます」
話が具体的になるにつれて応接室の空気は活気づいていき、三者は互いの利益を確認しつつ、日仏協力の新たな章を開く準備を整えていくのであった。
次回予告 第344話 『小栗上野介』
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