文禄四年十一月二十九日(1595/12/29)
バンテン王国の港町は異様な緊張感に包まれていた。港には数隻の肥前国商船が停泊し、不気味な影を落としている。かつては活気に満ちていた埠頭も、今では人影もまばらだった。
「おい、あれを見ろ!」
一人の商人が指を差す。彼の声には不安と怒りが混じっていた。
「また肥前の船か」
周囲の人々もその視線を追い、港の奥に入ってきた肥前国の商船を見つめる。
「もう限界だ。あいつらに買いたたかれては商売にならん」
「そうだとも。昔はコショウ一つで家族が養えたものを」
事の発端は、肥前国の商人たちによるコショウの買占めにあった。バンテン王国のコショウは、かつては王国の繁栄を支える柱だったのだ。しかし、肥前国が自国での栽培に成功して以来、その需要は激減。
買い手の最大手だった肥前国が、突如として商売敵になったのだ。これは今に始まった事ではない。肥前国が香辛料の生産に成功したのは十数年前である。
そのときから、じわじわ、じわじわとバンテン国の経済を|蝕《むしば》んでいたのだ。
純正は共存共栄を掲げているために、表向きは半自由経済とでも言おうか、半統制経済とでも言おうか、力に任せた強引な商取引には規制をかけていたのだ。
少なくとも、かけていたはずであった。
しかし十数年を経るうちにその規制は緩み、腐敗と賄賂の温床となってバンテンの商人を苦しめていたのだ。
肥前国は北米大陸からアフリカ西岸まで広大な領土を治める帝国である。そのため必然的に統治が行き届かなくなる地域がでてくるが、このバンテンでの出来事は氷山の一角なのかもしれない。
バンテンの管轄は東南アジア総督府で、カリマンタン島のクチンにあった。統治領域はブルネイ県・スラウェシ県・インドネシア県・ニューギニア県・オーストラリア県・インドシナ県にわたる広大な地域である。
クチンとバタヴィアは地方全体を考えると近距離ではあったが、総督の籠手田安経も、その統治に漏れがあったと言わざるを得ない。
もちろん、バンテンの商人も座して死を待つばかりではなかった。
肥前国が買わなければ、以前と同じく東南アジア各国やインド(コショウ以外の販売商圏)やアラビアまで足を伸ばせば良いし、逆にそこからバンテンにやってきた商人に売れば良い。
ところが、そうは問屋が卸さなかった。
オスマン帝国はソコトラ島の海戦で肥前国に敗れ、インド洋の制海権を完全に失っている。サファヴィー朝との交易は可能であったが、それでも肥前国を介さない交易はあり得なかった。
遠距離であるイスラム圏との直接の貿易は、事実上不可能となったのだ。ポルトガルを介したとしても、状況は同じである。
ムガール帝国やヴィジャヤナガル王国はもちろん、弱体化しているタウングー朝をはじめとした東南アジアの国々も、肥前国の影響下にあり、質・量ともに優れた肥前国産が珍重されていた。
純正の想いとは別に、共存共栄の理念がほころびを見せていた事になる。
「売れるだけありがたいと思えだと! ? ふざけるな!」
年配の商人が地面に唾を吐いた。
「最初はそう思っておったさ。だが今じゃ、値段までヤツらが決めている」
「このままじゃ、オレたちの生活が……」
一緒にいた青年商人は不安げに声をあげた。
「追い出せ! 肥前の奴らを追い出せ!」
遠くから怒号が聞こえてきた。
その声に触発され、港にいた商人たちの表情が一層険しくなる。
「ついに来たか。もう我慢の限界だ」
さきほど唾を吐き捨てた年商人は、覚悟がきまっているようだ。
若い商人が不安げに尋ねる。
「どうすれば良いんでしょう? このまま逃げるべきでしょうか」
「逃げたところで、どこに行けば良いんだ! いい加減腹をくくれ!」
年配の商人が声をあげた。
「肥前国が自国でコショウを栽培し始めてから、わしらの商売は先細りの一途だ。他の国との取引も、ヤツらのせいで難しくなってしまった。ここで待っていてもイスラムやインドの船は来ぬし、他の国も肥前国から買う。いずれにしても尻すぼみだ」
群衆の怒号はさらに大きくなり、肥前国大使館の方角から黒煙が立ちのぼるのが見えた。肥前国の商人たちは恐怖に満ちた表情で互いを見つめ合う。
「これは危険だ。早く逃げよう!」
一人が叫んだ。
しかし、逃げる間もなく暴徒と化した群衆は港に押し寄せてくる。彼らは肥前国の商船に向かって石を投げ始め、次第に火をつけ始めた。
その混乱の中、肥前国大使の佐々木久太郎と数名の館員が群衆に囲まれてしまった。彼らは必死に説得を試みたが、怒り狂った群衆の声にかき消されてしまう。
「我々の生活を返せ!」
「肥前国は出ていけ!」
怒りに満ちているその声は、怒号にかき消されてなんと言っているのか聞こえない。
「え? なんだって? ま、待ちたまえ! 話せばわかる! 落ち着きたまえ、ぐあっ……」
「大使!」
ついに起きてしまった。
群衆の中から一人が槍を振り上げ、大使を突き刺したのだ。他の館員たちも次々と襲われていくが、致命傷だったのか、大使の悲鳴はすでに聞こえない。
ただそこには血まみれになった日本人の死体が転がっているだけであった。港はまたたく間に地獄絵図と化し、肥前国の人々の血が石畳を赤く染めていった。
バンテン王国の怒りは、長年の不満とともに一気に爆発したのである。
肥前国商船の船長はこの惨状を目の当たりにし、急いで出港の準備を始めたが間に合わない。すでに暴徒たちは既に船に乗り込み、略奪を始めていた。
「逃げろ! 命あっての物種だ!」
船長は残された乗組員たちをまとめ上げ、暴徒をなんとか船外に押しのけて出港した。彼らの背後では、燃え盛る船の炎が夜空を赤く染めている。
「急げ! クチンの総督府まで急ぐんだ! そこで保護してもらう!」
■バンテン王国王宮
王宮では、ムハンマド王が事態の報告を受け、顔を青ざめさせていた。
「これは大変なことになった。肥前国との関係が……ごほっげほっ……」
「陛下、早急に使者を送り、謝罪と賠償を申し出るべきかと」
側近であるラデン・マス・ユダ・プラタマが進言した。
「なぜこのような事になったのだ? これは余の治世からなのか?」
「いえ陛下、そうではありません。先々代のハサヌディン王の治世よりその兆しはあったようです」
「なに? そなたは……そなたは知っておったのか? 肥前国との関係が民衆を暴動へと向かわせるほど悪影響を与えていたと」
「申し訳ありません!」
プラタマはムハンマドの正面にいき平伏して頭を床につけた。
「決して! 決してそのようなことはありません! 先代、先々代の頃は伝聞でしか知りませぬが、陛下の御代においては怪しきところがあり、しかし確証を得るまでは報告せぬ方がよいと考えたのです!」
バンテン王国は見せかけの繁栄であった。
いや、見せかけですらなかったのかもしれない。王宮への多大な肥前国商人からの賄賂が役人の懐へ消え、ムハンマドも王としては無能ではなかったのかもしれないが、市井の隅々まで目を配ることはできなかったのだ。
15年前に9歳で即位してからは、重臣の後見のもと統治をした。思えばその時すでに腐敗にまみれていたのかもしれない。肥前国の商人は王宮の高官に賄賂を渡すかわりに、無法な商行為を黙認してきたのだ。
「そ、そうだ。速やかにクチンの総督府へ使節を送らねば、関係を改めるのはそれからだ! げほっごほっ……」
「陛下!」
「大事ない。早く使節を……」
「はっ――」
プラタマが返事をしてすぐさま取りかかろうとしたその時――。
「手ぬるい! いまさら肥前国におもねってどうするのだ! ここは民の力と勢いをもって肥前国の勢力を一掃し! かつての栄華を取り戻そうではないか!」
武官で将軍でもあるラデン・トゥメングルン・ウィラブラタであった。
次回予告 第820話 『バンテン王国の争乱、広がる』
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