第820話 『バンテン王国の争乱、広がる』

 文禄四年十一月二十九日(1595/12/29)

「手ぬるい!」

 ウィラブラタの怒号が王宮に響き渡った。その声にムハンマドは拳を握りしめて凝視した。

「民の怒りは正当だ。肥前国の横暴を許すべきではありません!」

 ウィラブラタはそう声をあげ、ズカズカと前へ進み出て激しく主張した。その姿はまるで戦場に立って兵士を鼓舞しているようである。プラタマは冷静さを保とうと努めながら、ウィラブラタに向き直った。

「将軍、軽はずみな行動は危険です。肥前国の力は絶大。我々には慎重な外交が必要です」

「外交だと? この体たらくになるまで、貴様ら文官は何をしておった! 武官たる我らは、このオレが長となってからは少なくとも賄賂も腐敗とも無縁だ! もしあればその場で斬り捨てておるわ! ……そんな貴様らが、今さら何を外交できると言うのだ!」

 ウィラブラタの視線は王からプラタマへ移った。プラタマは唇をかみ締め、冷静さを保ちながら、言葉を選び反論する。ここで主導権を握られては、王国の未来はない。

 そう思ったのだ。

「将軍、確かにこれまでも我々の対応に不備があったことは認めます。いや、小さな問題を放置し続けた結果、まるで鍋の中のかえるのように、危機に気づかぬままここまで来てしまったのかもしれない。しかし、今は冷静に事態を分析し、最善の策を講じるべきです」

 ムハンマド王は二人の重臣の激しい議論に困惑の表情を浮かべた。せき込みながら、かろうじて声を絞り出す。

「両者の意見はもっともだ。だが、今は冷静に事態を把握せねば」

 王の言葉に2人は沈黙したが、その静寂は長くは続かなかった。

「ウィラブラタの言う民の怒りも、プラマタの言う外交の重要性も理解できる。だが、今は――」

「陛下! 暴徒が宮殿に押し寄せています!」

 ムハンマドの言葉は突然の喧騒けんそうで遮られた。宮殿の外から怒号と悲鳴が聞こえてきたのだ。慌てて駆け込んできた衛兵の表情には、恐怖の色が浮かんでいる。

 王宮は緊張に包まれた。

 ウィラブラタは剣を抜き、プラタマは王の側に駆け寄った。

「陛下! 決断の時です! この民衆の怒りを収めるには、ともに肥前国を討とうという、陛下の一言しかありません!」

「いけません陛下! 国をあげて肥前国に立ち向かうとは、正気の沙汰ではありません! 国が、王国が滅びますぞ!」

「ええい! そのような世迷い言、まだ言うか! ではどうするのだ! 貴様の言う言葉で民が納得するのか? この騒動が収まるのか?」

 ウィラブラタの鬼気迫る形相にプラマタは一瞬ひるむが、意を決して言う。

「わかりました! 私が行って説得してきます!」

「な! バカを言うな、殺されるぞ!」

「構いません!」

 プラマタもまた、命をかけて国を救おうとしていたのだ。




「みなさん! どうか冷静に! 冷静になってください!」

 プラマタは衛兵に頼んで大きなドラを数回たたいて注目させ、声を張り上げて言った。群衆は丸腰ではない。棒や石、クワやその他の農具、刀や槍で武装している者も多かった。

 それに商人だけではない。農民や町人の多くも暴動に加わっていたのだ。

「みなさんの怒りはよくわかる。肥前国の横暴に我慢ができないのだろう。だが、暴力は解決策にはならない」

 プラマタの第一声は怒号に満ちた群衆の中に響きわたり、一部の民衆は一瞬動きを止めた。プラマタはその隙を逃さず、さらに声を張り上げたのだ。

「何を言っている! お前たちが肥前国に買収されているからこうなったのだ!」

 群衆の中から不満の声が上がったが、彼はその声に動じることなく冷静に応じる。

「確かに我々にも落ち度があった。だが、今こそ冷静に考えるべきだ。肥前国と全面対決すれば、わが国は滅びる」

 その言葉に群衆の中から動揺の声が漏れる。プラマタはその反応を見逃さなかった。

「我々にはまだ希望がある。肥前国と交渉し、公正な貿易を求めるのだ。わが国の繁栄は、みなさんの手にかかっている」

 プラマタの言葉は少しずつ群衆の心に染み込んでいるようだった。しかし――。

「嘘つけ!」

 群衆の中から、一人の男が飛び出してきた。その手には、鋭い刃物が握られている。

「お前たちの甘言にだまされるものか!」

 男はプラマタに向かって突進した。プラマタは、その姿をりんとして見据えた。

「私の命など惜しくない。だが、バンテン王国の未来を考えてほしい」

 プラマタの毅然きぜんとした態度に男は一瞬動揺したが、そのまま突っ込んでくる。

「捕らえろー! !」

 そう叫んだウィラブラタは突進してプラマタに抱きついて倒し、暴漢の襲撃から救う。

「だから言ったではないか! 無事か?」

「あ、ありがとうございます」

 暴漢が取り押さえられた事によって一時は収まったが、再び群衆はたけり狂って叫び声を上げている。

「お前らはいつも口だけだろう!」
「そこに立っているヤツら全員甘い汁を吸ってんだろ!」
「殺されないうちに消えろ!」
「肥前国のヤツらは皆殺しだ!」




 群衆の怒号が再び高まる中、王宮の扉が開いた。ムハンマド王が姿を現したのだ。王の登場に群衆は息をのんだ。

「民の皆、余の言葉を聞いてほしい」

 ムハンマド王の声は弱々しくも毅然としていた。王はせき込みながらも、言葉を続ける。

「わが国の繁栄は、我々全ての願いだ。肥前国との関係に問題があったことは認めよう。だが、今こそ冷静に対応すべき時だ」

 王の言葉に、群衆の動きが止まった。ムハンマドはさらに続けた。

「プラタマの言うように、外交による解決を模索する。同時にウィラブラタの意見も尊重し、わが国の利益を守る。両者の知恵を借り、この危機を乗り越えよう」

 王の言葉は、群衆の心に響いた。怒りに燃えていた顔々に、冷静さが戻り始めた。

「陛下、ご英断に感謝いたします」

 プラタマが頭を下げる。ウィラブラタも、渋々ながら同意した。

「わかりました。陛下のお言葉に従います。しかし陛下、具体的にどうするのですか?」

「私に腹案がございます」

 ムハンマドとウィラブラタはプラマタを見る。起死回生の策があるのだろうか。

「プラマタよ。どうするのだ」




「ネーデルランドとの取引を拡大するのです」

 ……ネーデルランド?




 ■文禄四年十二月五日(1596/1/4)

「そ、総督! 大変でございます!」

「なんだ新年早々、悪いしらせなら聞かんぞ、縁起でもない」

 肥前国では早くからグレゴリオ暦が採用され、旧暦は現在と同じように祭祀さいし関連に留まるようになっていたのだ。

 総督の籠手田安経はそう言って笑いながら使者を見た。 

「バンテンにて暴動発生! わが国の商人が襲われ、大使も刺殺されましてございます!」

「なにい!」

 新年4日の出来事である。




 次回予告 第821話 『バンテン王国とネーデルランド、総督府と純正』

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