文禄四年十二月十日(1596/1/9)
実はバンテンでの暴動が起きたときにプラタマが提案したオランダ接近案は、結論から言うと上手くいかなかった。
プラタマはバンテンではなく、スンダ・クラパ(現在のジャカルタ・以前のバタヴィア)に漂着したオランダ人と取引した商人からオランダの存在を聞いていたのだが、すでにコショウ貿易自体が、16世紀初頭の栄華に陰りがでていたのだ。
「なに? 肥前国に買いたたかれていたのではなく、コショウそのものの値が下がっているというのか?」
「はい、その通りです」
プラタマの落胆は尋常ではない。
「なぜそのように値が下がっているのか? 商人どもは肥前国を悪鬼の如く恨んでいるが、市場に出回るコショウの値そのものが下がっていれば、より安い値で買わねば利益がでぬ。当たり前の事をしているだけだ。多少のイザコザはあるかもしれぬが、それは逆恨みではないか」
「はい、コショウの場合ですと……」
そう言ってプラタマは心苦しいように報告を始めた。
「まず、これまでコショウは清国相手に販売をしていましたが、販路が徐々に縮小していたのです。肥前国はコショウに限らずさまざまな香辛料や、この一帯でとれる作物をみずからの領土で大規模に栽培して輸出したのです。しかし明は海禁政策中、解除後も日本との貿易はしていませんでした」
プラタマは続ける。
「そのため肥前国は琉球や広南国、アユタヤ国にコショウを輸出、明国はそれらの国から輸入をし始めたのです。大量のコショウがいままでより安価で買えるとなれば、バンテンのコショウを高値で買う必要はありません。需要が上がれば値は上がりますが、十分に供給されれば、値は下がります」
プラタマは机の上に広げた交易記録を指でなぞりながらさらに説明を続けた。
「肥前国のコショウ生産量は5年前の3倍に達しています入っています。彼らは広大な農園を開墾し、現地の灌漑技術を改良しました」
ムハンマドが地図上の肥前国領土を示す赤い印を見つめる。かつては無名の小国だった肥前国が、現在ではスマトラからセレベスに至る海域を支配している。
それはポルトガルの比ではない。
「イスラムの商人にしても同じ事です。インドより遠方のバンテンを選んでいた理由は、バンテン産のコショウがインド産より香りが強く珍重されていたからです。ポルトガルのインド支配を嫌い、さらにマラッカを占領してからはモルジブ~アチェ間の航路を開拓し、そこから南下してスンダ海峡を通ってわが国と交易しておりました。この時期がもっとも潤っていた時期です」
「ふむ」
祖父であるハサヌディン(マウラナ・ハサヌディン)、父のパヌンバハン・ユスフ(マウラナ・ユスフ)の偉業を、ムハンマドは目を閉じて考えている。
「ただし肥前国もそれは同様です。質の高いコショウを大量に生産し、ポルトガルと同盟を結んで販路を広げたのです。海峡を通る船はバンテンで取引をするという約定はそのままでしたので、その後もイスラム商人はこのスンダ海峡を通ってバンテンで取引をしました。しかし同品質で価格が安いとなると、バンテン産より肥前産のコショウを買い求めるようになっていったのです」
「……それでどうしたのだ?」
「もちろん関税をかけました!」
プラタマは目を見開き、訴えるように言ったあと、交易記録を示しながら説明を続ける。
「しかし関税を課したことで一時的に収入は増加しましたが、長期的には逆効果でした。商人たちはより安価な肥前産コショウを求めて、バンテン港を避けるようになったのです」
「つまりは……イスラム商人としか取引ができぬようになったと?」
「完全になくなった訳ではありませんが、ポルトガルは自前でモルカ諸島を有しておりますし、肥前国は別にイスラムに売らなくても十分利益をあげておりました。新しい販路を開拓できぬまま肥前国がイスラムに勝ったためにインド洋が塞がれ、いま、完全に販路が閉ざされたのです」
「なんと……」
ムハンマドは言葉が出ない。
「さらにポルトガルによる大規模な農園開発。これは西の果ての新しい大陸にあるようなのですが、そこで肥前国と同じく砂糖とコショウを栽培し、ヨーロッパに売っているのです。これで最初に話したネーデルランドの件とつながります」
「どういう事だ?」
これです、とプラタマは机上の数値を指差した。
「もともとヨーロッパにおけるコショウの値段は、この通りでした」
※胡椒1カティ(約600g)
・金:約6.77フン (約2.54g)
・銀:約0.84タエル (約31.58g)、約8.42マース (約31.58g)、約84.21フン (約31.58g)
「それが新大陸の農園が開発されてからは1割下がり2割下がり……。それでも質の高いコショウを求める声は高く、大きな値崩れはありませんでした。しかし品種改良が進んだのか、わがバンテン国産のコショウと同等のものが流通するようになり、輸送費を考えるととても太刀打ち出来ないのです。ネーデルランドの商人も、今より安くなれば、もうコショウは無理だと。今回が最後の取引になるだろうとも」
プラタマの言葉を聞いたムハンマド王は、深い溜息をつきながら窓の外を見た。かつては活気に満ちていたバンテン港の様子が一変していることに気づく。
「コショウは、もうダメか」
プラタマは交易記録を整理しながら続ける。
「残念ながら、コショウのみでは解決しません。30年前は年間7,000バーラ(約1250トン)から11,000バーラ(約2000トン)ものコショウがこのルートで輸送されていました。しかし、今や見る陰もありません」
それから、とプラタマは続ける。
「ネーデルランドの商人は苦慮しておりました。コショウに関しては新大陸産のものには値段で敵わない。なにか別の方策を探らねば、と」
「大変です! パレンバンより肥前国軍南下! 港は肥前国の海軍の船で埋め尽くされています!」
「なに! ?」
■諫早城
純正はスンダ・クラパ(現在のジャカルタ・以前のバタヴィア)にオランダ商人が到着して交易したこと、バンテンで暴動が起きたことを同時に知った。
「申し訳ありません殿下! それがしの管轄する東南アジアでこのような有り様となり、言葉もありませぬ」
東南アジア総督の籠手田安経は白装束で諫早に参府していた。
「なんだ安経、まさか腹を切ろうなどと考えているのではあるまいな? それは心得違いぞ。そもそも事は領内ではない。外国であるバンテン国内で起きたのじゃ。お主の管轄ではない。しいてあげれば外務省や経済産業省、情報省、いずれも単独の責ではなくさまざまな事が重なっておきたのだ。然りとて大使と職員が殺された儀については、オレが直に国王とあわねばなるまい」
純正は落ち着いて安経の報告を聞き、そう話したの。
「で、殿下御自らでございますか」
「当然だ。この際、貿易やその他の実情も知っておかねばならぬし、経産省隷下の貿易管理省の実態改善も必要だ。安経よ、ひとまずはバンテンに対してはどう処したのだ? 商人からの被害届かなにかで事件を知って諫早まで来たのであろう?」
「はっ、ただ今は海軍と陸軍に依頼して邦人の保護のために軍を向かわせました、同時に総督府の外務官僚を派遣し、安全を確認後に交渉をはかるようしております」
うむ、と純正は大きくうなずいた。
「良い判断だ。よし、さっそく支度せよ。バンテンへ向かう」
「ははっ」
次回予告 第822話 『純正とバンテン王、共存体制の再確認と強化』
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