慶応元年六月二十六日(1865/8/17) 琉球
予定していた9月1日~15日よりも2週間早く、証人喚問が行われた。
イギリス側としては一刻も早く実施して心証を良くしようとの考えだったのだろうが、次郎をはじめとした日本側は動じない。
証人喚問は当然の事である。
これが滞りなく行われたとしても、日英関係が元通りになるわけではない。事実が解明されてイギリスの所業が白日のもとにさらされても、元には戻らないのだ。
次郎は日英通商修好条約はもちろんだが、和親条約すらすぐに結び直す(復活)つもりはない。
なぜか?
国内感情的には外国との条約はそもそも必要がなかったからだ。それに今は、アメリカ・フランス・オランダ・ロシアがいる。
もちろん軍艦の航行を認める必要もなければその気もない。
長崎の開港が認められればイギリスにとって最良だろうが、現状では薪水給与令レベルがせいぜいだろう。
「さて、ようやく、ようやく会えましたね、オールコック卿」
次郎は冷静に、かすかな笑みを浮かべてあいさつをした。
隣には川路聖謨が同席し、数名の通訳や日本側のスタッフがいる。殿ではなく敬意をこめて『卿』とつけているが、本当にそれが敬意なのかは不明だ。
オールコックは次郎の言葉に対し、わずかに目を細め、頭を下げる。その表情には疲労が見て取れた。部屋の空気は張り詰め、両者の間に漂う緊張感が周囲にも伝わっている。
「ありがとうございます、と言いたいところですが、これは何の騒ぎですか?」
オールコックは周囲を見渡し、次郎に告げた。
その理由をその場にいた誰もが瞬時に理解する。
日英の外交担当者と当事者以外に、アメリカやオランダ、フランスやロシアをはじめとした各国の外交官僚が同席していたのだ。
オブザーバーとして証人喚問の様子を一部始終把握できるよう、次郎が呼んだのである。
「これはだまし討ちですか? 聞いていませんよ、各国の代表がこれだけ同席するなどと」
オールコックは不機嫌になりながらも声を荒らげず、冷静に反論した。
だまし討ちとは心外だ、と次郎も応じる。
「確かに同席者を知らせていなかったのは、こちらの不手際です。しかしそれによってあなた方の言動は変わるのですか?」
オールコックは一瞬言葉に詰まり、次郎の鋭い指摘に顔をしかめた。
「……もちろん我々の言動に変わりはありません。しかし、これは日英2国間の問題です。他国を巻き込む必要はないでしょう」
次郎は穏やかにほほえむ。営業スマイルだ。
「オールコック卿、これが日英2国間だけの問題だと本当にお考えですか? 生麦事件とその後の経緯は、開国後の日本と列強諸国との関係に大きな影響を与えています。各国の代表にも事実を知る権利があるのです」
「……わかりました。状況は理解しました。では、証人喚問を始めましょう」
オールコックは深いため息をつき、椅子に腰を下ろした。
「では、まず生麦事件当時のあなたの行動ですが、事件発生時、あなたはどこにいましたか?」
「事件当時、私はイギリスに帰国していました。1862年3月に日本を離れ、1864年3月まで本国にいたのです」
オールコックは即答した。
その言葉を聞いた上で、次郎は冷静にうなずいてさらに質問を続ける。
「では、あなたが不在の間代理公使を務めていたニール氏の行動の、何を把握していますか?」
「それは現在ですか? それとも当時、例えば62年から63年にかけて、少なくとも英日が戦闘状態に入る前の時点でしょうか」
オールコックはゆっくりと、言葉を吟味して答えた。
次郎はオールコックの質問の意図を探るように、視線をそらさずに確認する。
「両方をお聞きしたい。まずは当時の状況から」
「ニール氏は代理公使です。私が帰省中は彼が全権なのですから、彼からの報告の義務はありません。ただし、不幸にして起きた事故に関しては、新聞等で知りました。それから現在まで、私は外交官の職からは離れていましたので、詳細は知りません。しかし生麦事件後に、彼が冷静に事態を収拾しようと努めていたと理解しています」
オールコックは深く息を吐き、ゆったりとした口調で答え始めた。
次郎は静かにうなずき、さらに質問を重ねる。
「では、捕虜となったイギリス兵の手紙によれば、生麦事件はイギリス側の陰謀だったとされています。これはどうお考えですか?」
オールコックの表情が曇った。
目を伏せ、しばらく沈黙した後にゆっくりと口を開く。
「そういった類いの手紙の存在は承知していますが、内容の真偽は確認できていません。イギリス政府としては……いえ、私個人としては、そういった陰謀の事実はないと考えています」
「ではなぜ事件後、イギリス側は薩摩藩だけでなく幕府にも賠償金を要求したのでしょう? これは日本の内政に干渉する意図があったのではないですか?」
「内政干渉?」
オールコックは一言そう言って次郎の真意を探ろうとする。
内政干渉? なぜそれが内政干渉になるのだ? 私の責任追及のための喚問ではないのか? それに陰謀の有無と薩摩への賠償請求と、なんの関係があるのだ?
「……失礼、Mr.オオタワ、それがなぜ内政干渉になるのですか? 幕府に対しては国としての賠償責任を負ってもらうためです。そして薩摩は独立した意志決定機関であると判断したために、事実上の被害の賠償を請求したまでかと。違うかね? ニール君」
「そうですね、オールコック卿の言うとおりです」
とニールが答える。彼は椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組んでいる。
「幕府と薩摩、それぞれに対して賠償を求めたのは、日本の政治体制を考慮したからです。それに薩摩への賠償の有無と陰謀の有無、なんの関係があるのですか?」
次郎は冷静にうなずき、視線をオールコックに戻す。
「では、なぜ薩摩に対して軍事行動を取ったのでしょうか? 鹿児島に攻め入る前に、外交交渉で解決できなかったのですか?」
「外交交渉は貴国との間でなされていたでしょう? 当時のニール代理公使となされていたと思いますが、いかがか? わが国としてはまず、幕府に賠償金を認めさせ、その上で薩摩との交渉に進むのが最も効率的だと考えたのでしょう。……このあたりは私よりも、実際に交渉にあたったニール君の方が詳しいと思います」
オールコックはニールの方を見て同意を促すが、ニールもそれに合わせてうなずいた。姿勢を正して説明を始める。
「はい、私が直接交渉に当たっていました。幕府との交渉は遅々として進まず、そうこうしている間に、わが国が生麦事件を誘発したなどと、荒唐無稽な話がでてきました。私としては取り合うつもりはありませんでしたが、最大限の譲歩として、上海での捜査協力に同意したのです」
「上海での捜査協力とは具体的には?」
「ちょっ、ちょっと待っていただきたい」
オールコックが間に入った。
「質問の主旨が二転三転しているのではありませんか? 今の論点は、なぜ薩摩を攻撃したか? 外交交渉はできなかったのか? だったのでは? 我々の回答によって質問をすり替え、自らに有利にもっていこうとしているのではありませんか? それに捜査の協力内容は、あなたがよく知っているでしょう? わざわざここで質問する必要はないかと」
次郎は静かにオールコックを見つめ、穏やかな口調で答える。
「質問の意図をご理解いただけなかったようで申し訳ありません。私の質問は、一連の出来事の流れを把握するためです。外交交渉から軍事行動へと至った経緯を明確にしたいのです」
オールコックは顔をしかめたが、もう一度ニールを見て促した。口裏合わせには見えない。
「薩摩藩との交渉は、幕府を通じて行われました。しかし、進展が見られず、時間だけが過ぎていきました。我々としては、事態の早期解決を望んでいたのです」
「では、なぜ軍事行動に踏み切ったのでしょうか?」
ニールは目を閉じ、しばらく考えてから答える。
「それは、外交交渉が行き詰まったためです。これ以上時間を費やしても、問題の解決の糸口は見えない。あまつさえ、荒唐無稽な理論から例外中の例外である上海の捜査に協力し、その上で2名が死亡するいたましい事件が起こりました」
ニールは顔をしかめ、遺憾の思いを示した。
「しかし彼らの発言も、わが国が生麦事件を誘発した決定的な証拠たりえませんでした。このやりとりは『なぜか?』と問う前に、Mr.オオタワ、あなたは当事者なのですから、よくご存じでしょう?」
「冗談じゃない!」
日本側外交官の横に座っていた男が立ち上がり、叫んだ。日本人ではない。
「オレはオールコック! あんたに言われてやったんだぞ! 銃もあんたが用意した! どうやるかっていうシナリオまで、準備していたじゃないか。サツマだったのは偶然だが、あんたが親玉だろうが!」
実行犯の2人の生き残り、ビル・スレイターである。
次回予告 第355話 『ビル・スレイター、猛り狂う』
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