慶応元年六月二十六日(1865/8/17) 琉球
「パークス領事、あの時あなたも首をかしげていたではありませんか。なぜ英国人の仕業だとわかるのだ、と」
……確かに。
パークスはアーサーと交わした会話を思い出す。
「……」
YesともNoとも言わない。現状では思い出すフリをするのが賢明だ。オールコックは依然として無表情を装っているが、ニールはそれ以上言わないでくれと言わんばかりの顔である。
「もうひとつ」
アーサーはそう言って、もう1通の文書を取りだしてテーブルに広げた。
――上海 英国領事館 ハリー・パークス領事殿
先日お伝えした生麦村事件に関し、追加の要請があります。
日本政府は事件関係者への聞き取りのため、近日中に捜査機関を上海へ派遣する意向を表明しました。つきましては、彼らの租界内における捜査活動への協力をお願いいたします。
しかし最優先事項は当該英国人2名の身柄確保と、英国本国への送還もしくは貴地における適切な処理です。
この点を踏まえ、日本側との接触、情報共有は慎重に行ってください。
いかなる状況においても2名の身柄が日本側に引き渡されることがあってはなりません。万全の対策を講じてください。
状況は刻一刻と変化しており、予断を許しません。引き続き、極秘裏かつ迅速な対応をお願い申し上げます。
1862年9月11日
エドワード・セント・ジョン・ニール
駐日英国代理公使――
「こ、これは……」
パークスは息をのむが、ニールは気が気ではない。
公文書が漏洩しているのだ。あり得ない。それに、事件に関与していることを示唆している内容が随所にあったからだ。
「領事、ここでも英国人と呼んでいることを不審に思ってらっしゃいましたよね? 対応と書くべきところを処置と書いている点もおかしいと」
「いったい何だこれは! イギリス国内の公文書がここにあるとは、なんだ、ねつ造か? ! それとも漏洩か? ! これは由々しき事態ですぞ! 日本側はこれをどう説明するのですか!」
ニールが十分に考えに考え、出てきた発言がこれである。
オールコックは黙り込んで目をつむり、パークスは無表情でニールを見る。
今でこそ分かっているが、当時は疑問だったのだ。
アーサーはと言えば、別にパークスを恨んでの行動ではない。慕ってもいたし、結果的に巻き込まれはしたが、パークスのせいでないことはわかっていたからだ。
「それは私が説明しましょう」
次郎が発言してニールに答える。
「別段問題ではありません。この文書はイギリス政府に公式に許可をもらって開示しているのです」
「なんですと! ……そんなバカな!」
ニールが声を荒らげるが、オールコックは眉をピクリと動かしただけである。パークスはやはり、という思いでわずかに息を吐く。
すでにイギリスの新政権は、全貌を明らかにして前政権を追及する方針を固めている。さらに事件に関係した3名を弾劾すると決定していたのである。そのため幕府からの要望にはイギリス要人の立ち会いの下、開示が許可されたのだ。
「なぜだ……」
ニールは言葉を失った。
イギリス政府が公式に許可を出した事実に頭が混乱していたが、オールコックは静かに目を開け、次郎に向かって問いかける。
「日本政府はいつからこの情報を把握していたのですか?」
「正確な日付は控えますが、開示要請をしたのは、皆さんの証人喚問受諾の報告を受けたころです」
次郎は淡々と答えた。
しかし現時点ではまだ、オールコックが生麦事件の誘発に関与している証拠はない。
要点を整理すると、以下のとおりだ。
・ニールが外国人2人を捜索、確保するよう依頼している。
・この時点で英国人という表現を使っているので、何らかの情報を得ていたと思われる。
・適切に『対応』ではなく『処置』と書いているので、パークスの行動に対する含みを持たせている。
・日本側に渡すのではなく、イギリス側で確保し、本国送還かもしくは厳重に保護を命じている。
・これは日本に約束した捜査協力とは反する可能性がある。
「アーサー君、パークス領事、この文書の内容に間違いはありませんね?」
アーサーは『はい』と返事をし、パークスは黙ってかすかにうなずいた。
「ではニール殿、ここにはイギリス人と書かれてあります。あなたは私との会談の際、1862年の9月5日ですが、生麦事件における逃亡者の所在は知らないとおっしゃった。いかがですか?」
3年前の話である。ニールはゆっくりと思い出そうとするが、徐々に青ざめていくのがわかった。
心臓が激しく鼓動を打つのが聞こえそうだったが、ゆっくりと何度も何度も深呼吸したあとで、ニールは話しはじめる。
「確かに、私がそう言ったのは……事実です」
おおおおお! ざわめきが万座に起こった。
「では、お伺いします。この文書では9月5日と9月11日で、はっきりと英国人と書かれている。にもかかわらず、あなたは9月5日の会談で知らないとおっしゃった。会談での発言は嘘だったのですか?」
質問と回答の間に間が空く。ニールはそのたびに深呼吸をしながら、言葉の齟齬がないように、かつ言葉尻をとらえた言い方をする。
「そうではありません。会談で知らないと言ったのは事実です。しかしどうも……その文書の方に間違いがあるようです」
「なんですと? 公文書ですよ? それが間違っていると?」
「違います。……文書に誤りがあるのではなく、私の表現が、この場合は不適切だったと言うべきでしょう」
同席している全員が顔を見合わせている。オールコックは下を向き、何やらわずかにニヤついている。
「それはいったい?」
「この上海領事への文書では英国人と書かれています。しかし恐らくは間違いで、『~らしき』とか『~と指摘を受けるであろう』の部分を書き忘れていたのではないかと思われます。それに最初の文書は同じ日付、会談の後に書かれた文書でしょう」
「そんなバカな話があるか!」
「川路様!」
次郎の隣に座っていた川路があまりの回答に立ち上がろうとするのを、次郎が必死で止めた。
(ここは聞きましょう。いずれにしても公文書が出てきた時点で言い逃れはできません。この会談は間違いなくわが国の勝ちです)
次郎は川路の耳元でそう伝えると、ニールに向きなおって質問する。
「2回も間違うとは……しかも公文書で。大変疑わしいですが、仮にそうだとしても、なぜその情報を教えてくれなかったのですか? イギリス人であることや上海へ行ったこと、何も話していただけませんでした」
「当然です。あなた方はあの時、それを事実として語っていました。私は外交官として、確証のない情報を公にはできません」
事実、ニールは会談の際に2人組が上海に逃げた確証をつかんではいなかった。会談の後にあわてて上海へ文書を送ったのだ。
「なるほど。なるほど、なるほど……。ではこの件はまた確認いたしましょう。次に適切に対応ではなく、処置、と書いている部分ですが……」
「……それも書き間違い……ですね」
苦しい言い訳だ。
1か所ならまだわかるが、間違いの部分がいくつもあれば、その数だけ信頼度が薄まる。
「……ニール前代理公使、失礼ですが貴国では文書を送る前に校正や|推敲《すいこう》はなさらないので?」
「……」
沈黙が続く。
「それは……当時は恥ずかしながら、業務に忙殺されていたのは確かです。理由にはなりませんが、それが原因といえば原因と……言えなくもありません」
「なるほど。ではこれは……直接生麦事件に関係はありませんが、前代理公使に質問です。あなたは今、本当にこれでいい、とお考えですか? あなた方3名は関係者としてこの喚問に出頭していただいています。これまでの発言もこれからの発言も、ご自身の立場を左右するとお考えに……深く深くお考えの上で、お答えいただいていますか?」
「?」
これはニールに対して投げかけた質問であった。
しかしオールコック、ニール、パークスともに、その意味を理解するのに時間はかからなかった。
次回予告 第358話 『決別と決着』
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