慶応元年六月二十七日(1865/8/18) 琉球
次郎はニールの言葉を聞いて深く考え込んだ。
イギリスから正式な調査団への協力があったのは事実である。しかしそれ以前の非公式な動きを日本側が情報を秘匿していたのもまた、事実なのだ。
もっとも情報の重みにはかなりの差がある。日本の先遣調査隊派遣の情報と、イギリスが秘匿した港での銃撃戦では雲泥の差があるのだ。
「ニール殿の言葉には一理あります」
次郎は静かに口を開いた。
「しかし、それでもなお疑問は残ります。貴国が独自に判断して情報を秘匿したのは、協力の精神に反するのではないでしょうか」
・二人は生麦で薩摩藩の行列に対して発砲した恐れがある(あくまでも『恐れ』であり、二人から聞いてはいない)。
・二人の名前は不明、それらしき情報を照らし合わせて確保を試みるも、日本人集団(だと思われる)に奪還された。
・その際紅幇により射殺(1人は大村藩医師団により回復、しかしその事実をイギリス側は知らなかった)。
・巻き添えで領事館員が死亡(実際は射殺されたが、これも回復。イギリス側は知らなかった)。
・オールコックの指示かどうかは不明で疑惑の段階(証人喚問前の打ち合わせでも、オールコックは断言していない)。
・オールコックは英国首脳部に犯行指示の事実を告白(しかし現時点でもニールとパークスは知らない、疑惑)。
・英国政府からの指示は上海事件の段階ではパークスには知らされていない。(英国でもこの時点でオールコックの関与はしらない)。
これが真実である。
ニールは肩をすくめた。
「それは見方の問題です。我々は自国の利益を守るために行動しました。それは貴国も同じではありませんか」
会場内に緊張が漂う。日本側の出席者たちは互いに顔を見合わせながら、この展開をどう受け止めるべきか思案している。
オールコックは無言のまま、ただ事態の推移を見守っていた。彼の表情からは何も読み取れない。しかし、その内面では複雑な思考が渦巻いているに違いない。
「では、パークス殿」
次郎は視線をパークスに向けた。
「貴殿の見解はいかがですか」
パークスは姿勢を正す。
「……私見ではありますが、この事態は双方の不信感から生じたのではないかと考えます。確かに、情報の共有には不備があったかもしれません。しかし、それは互いの国益を守るための行動であったと解釈できるのではないでしょうか」
パークスの言葉に会場内でささやきが起こる。
「国益を守るため、か」
次郎はその言葉を反芻する。
「しかし、それが元で外交関係を損なうのであれば、本末転倒ではないでしょうか」
オールコックがせき払いをした。
「Mr.オオタワ、あなたの指摘は正しい。しかし、外交とは常に綱渡りと言っても過言ではないのです。完全な信頼関係を築くのは難しい。それでも、我々は協力し合わねばならない――」
「オールコック卿」
次郎はオールコックの発言をぴしゃりと遮り、パークスへと戻す。
「私はパークス領事に聞いているのです。それにすでに、英国への信頼はありません。おわかりですか? ないのです。今回の証人喚問は、事実確認と今後貴国とどう関わっていくかの試金石にすぎません。もちろん、謝罪と賠償は当然いただきますが。これはそこにいらっしゃるガウワー全権との話ですからね」
黒幕であるオールコックに、現時点で聞く必要はないのだ。
次郎の言葉で周囲がざわつき、オールコックの表情が強張る。
「Mr.オオタワ、ご指摘の通り、情報の共有に関して不備があった点は認めます。しかしそれは双方に言えるのではないでしょうか」
パークスは一息ついて続けた。
「確かに、我々も情報を秘匿しました。しかしそれは国益を守るためであり、悪意があったわけではありません。貴国も同様の立場だったのではないでしょうか」
次郎は黙って聞き、静かにうなずく。
「(……うん、まあいいや、もういいです。どうでもいいや。信頼関係なんてないんだから)この件は相殺でおわり。で……」
前半3分の2は英語だが、独り言のようなしゃべり方だ。
その英語を横で川路に伝えている通訳が一瞬つまったが、川路にせかされて伝えると、川路はニヤリと笑った。
紳士的な態度から急変し、突然キレる次郎のやり方は、今回が初めてではないからだ。
「パークス領事、あなたはこの2通の文書が来たとき、どう思いましたか? 駐日公使からの依頼であり命令ではない。どう行動すべきだと判断し、行動しましたか?」
ニールは信念と国益に基づいて行動したと公言した。
その後は政府の指示に従ったと供述し、今後も変わらないだろう。
ではパークスはどうか?
「最初の文書を読んだ時は、依頼であればできる限りの対応をしようと考えました。生麦事件の真相はどうあれ、ここで二人を捜索して確保することに、何の問題もないからです」
確かに法的にも道義的にも問題はない。
「それで? その後はどうですか?」
「2通目を読んだ時は二人を捜索中でしたから、まさかと思いました。ですから本国の関与を疑わなかった、と言えば嘘になります。しかし確信はありません。それに管轄外の日本での出来事です。仮にも国を代表する外交官の公式文書なのです。したがって、そうすべきだと判断しました」
次郎はパークスの言葉を静かに聞き入った。その表情からは、すべてが想定内の発言だと言わんばかりの余裕が感じられる。
「なるほど。……ではつまり、お二人とも一貫して国益にそった行動だと? パークス領事はニール前公使の依頼がそうであると判断し、行動したのですね?」
ニールは言葉を発さずに黙ってうなずき、パークスは『そのとおりです』と答えた。
「わかりました。今回の証人喚問の目的は大きくは2点です。ひとつは生麦事件に関するオールコック卿の関与の有無。そしてもうひとつが、お二人がその事実を知っていたかどうかです」
加えて、と次郎は続ける。
「知っていたならどの時点においてかが争点となりますが、これはお二人とも、これまでの発言に訂正はありませんか?」
ありません、と二人はほぼ同時に答えた。
「ふむ……」
次郎はそう言って川路に目配せをし、川路がうなずくのを確認すると3人に告げる。
「いいでしょう。ではこの件は……ひとまず保留としましょう。あとは、オールコック卿、あなたです。あなたの指示でパーシー・ホッグとビル・スレイターの二人が生麦において発砲して事件を引き起こしたか否か」
パークスはホッと胸をなでおろし、ニールは達観しているのか無表情だ。
オールコックも黙って次郎をみつめている。
「オールコック前駐日イギリス公使にお伺いします。この件にあなたは関与していますか?」
卿ではなく、以前の外交官としての肩書きで次郎はオールコックを呼んだ。
「いいえ。私の関与など……事実無根です」
「本当ですね?」
「いったい何が言いたいのですか?」
次郎はイギリス側に座っている全権のガウワーを見た。ガウワーは黙ってうなずき、立ち上がる。そして退出していった。
日本側以外の全員が、何が起こっているのかわからない。
しばらくしてガウワーは二人の英国人を連れて戻ってきた。
イギリス側は騒然となり、他の面々は誰だ? という視線で注目する。
「ご紹介します……」
次郎の言葉に満場が絶句した。
次回予告 第360話 『決着』
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