慶応元年六月二十七日(1865/8/18) 琉球
オールコックとニール、そしてパークスの3人は立ち上がらざるを得なかった。
目の前に前英国首相と前外務大臣の2人が現れたのである。
立ち上がり……そして開いた口がふさがらない。
「ば、バカな……」
思わずオールコックは口に出してしまった。それほどの衝撃だったのだ。
「ご紹介します。前英国首相のパーマストン卿と、前外務大臣のラッセル卿です。ではお二人ともこちらへどうぞ」
次郎は証人喚問の『証人の証人』として、2人を呼んだのだ。
室内はコの字型にテーブルが設置され、上座ではないが正面に仲介国のオランダのポルスブルックが座っている。
ポルスブルックに向かって右手に川路聖謨と次郎、そして通訳が座り、左手にはオールコックを筆頭にニールとパークスが座っていた。2人は次郎に促されてポルスブルックの正面に着席する。
2人は次郎にとって、日本にとっては敵国のリーダーであったが、そんなことはどうでもいい。
すでに賠償と謝罪を前提に、ただ行われているだけの証人喚問なのだ。
「さて、御二方。生麦事件に関していくつかお伺いしたいのですが、嘘偽りなく証言していただく。誓えますか?」
「誓います」
総選挙で敗れて一般人になっていたとは言え、一国の前総理と前外務大臣をこの場に呼ぶのは難しかった。生麦事件に似た疑惑のケースは国際社会ではそもそも珍しく、関与を前提として前閣僚を呼ぶなど前代未聞だったのだ。
・生麦事件に関しては謝罪と治療費のみで、国家としての賠償金を請求しない。
・可能ならば戦後賠償金の減額交渉を実施する。
この2点を条件に次郎がイギリス政府に持ちかけ、合意を得た。
信じられない状況に3人はぼう然としていたが、自分たちが母国から完全に見捨てられたのだと理解するしかない。
日本側のこの戦略的譲歩は、オールコックの犯行を立証するための重要な一手だった。
これまでの証言では真相究明が難しかったが、重要人物を喚問することで事件の真相に迫る可能性が開けたのだ。
「ではまず、パーマストン卿にお伺いします。生麦事件の件で、オールコック卿からなにか報告を受けていましたか? これは現時点までを含みます」
パーマストンは、ふう、と長いため息をもらした。
予期せぬ状況に直面した動揺が、彼の表情にはっきりと表れている。
なぜ私はここにいるのだ?
国益のために行動したにもかかわらず、結果的に総辞職して政治生命も絶たれてしまった。
せめてものお情けで、爵位を剥奪しない代わりに琉球に赴いて証言しろなどと……。
依頼や要望ではない。命令ではないか。
イギリス国内では反戦ムードが高まる一方で、私たちに対する追及が激しくなっている。
国の威信をけがした、国威をおとしめた国賊、売国奴として内閣の閣僚、特に首相の私と外務大臣のラッセル卿に対する批判がすさまじかった。
その矛先をかわし、和らげるために行け、だと?
手段は間違っていたが、ではどうすればよかったのだ? あの段階で正直に告白し、罪を認めて謝罪すればよかったのだろうか? それこそ国威をおとしめるではないか。
……いや、戦争による被害がないだけ、そっちの方がましか……。
さまざまな思いを胸に、2人は琉球にいた。
「はい、報告は受けていました」
その言葉は鋭い刃のごとく会場を切り裂き、緊張が走った。オールコックの顔はみるみる青ざめていく。
「具体的にはどんな内容でしたか?」
「オールコック卿は、日本での国益を守るため、無法者を雇って薩摩藩の行列を妨害させたと認めました。さらに、銃を使用して脅かすよう指示し、事件後の犯人の出国手配まで自身で行ったと告白したのです」
パーマストンは深いため息と同時に目を閉じ、静かに言葉を探りながら言った。
「我々はその報告を受け、事態の重大さに驚愕しました。しかし当時の国際情勢を考慮し、この事実を公表せず、オールコック卿の行動を不問にすると決定しました」
「な!」
オールコックは顔面蒼白である。
ニールとパークスは、知らされていなかった事実に固まっている。言葉にならないようだ。
なに? 本国のこの2人は、事実を知りながら黙認したのか?
「国際状況? 重大な事実を隠蔽して平然とわが国に接しながら、あまつさえ開戦するなどと……。いったいどんな国際情勢ですか?」
次郎は冷静に状況を観察しながら、さらに質問を重ねた。
パーマストンは深く息を吐き、目を閉じて言葉を探る。会場の空気が張り詰める中、ゆっくりと口を開いた。
「その前にMr.オオタワ、私からひとつだけ質問してもよろしいですか?」
「質問? 質問に質問で返すとは……。まあいいでしょう。聞きたいことはなんでしょうか?」
次郎は不審に思いながらもYesと答えた。
「いえ、お伺いしたいのはあなたではありません。ここにいらっしゃる各国の代表者にお伺いしたいのです」
「……ここにいらっしゃる皆さんは、今回の件とは関係ありません。発言や質問の権利はなく、傍聴者として参加しているのです」
何をたくらんでいるのだ?
次郎には老練な前英国首相の意図がわからない。
「なに、個人的に私が聞きたいだけです。みなさんがどう答えようとも、私がここでお話しする内容に変わりはありません」
「……いいでしょう。では、何を質問したいのですか?」
次郎は真意を図りかねていたが、結局は質問を許可した。
「はい、ではみなさんにお伺いしたい。外交官として、決断しなければならない事態もあるでしょう。もし私と同じ立場なら、どうしていましたか?」
オランダのポルスブルックが最初に口を開く。
「私見ではありますが、国益と国際関係のバランスを取ることが重要だと考えます。しかし、具体的な状況によって判断は変わるでしょう」
「わが国の立場を考えれば、同盟国との関係を損なわないよう慎重に対応したでしょうね」
「国益を最優先にすべきです。ただし、長期的な影響も考慮に入れる必要があります」
「国益でしょう。少なくとも関与の告白があるまでは強硬に対応すべきです。しかし告白後の対応は……慎重を要したでしょう」
フランス・アメリカ・ロシアの代表も次々に発言した。
誰も本心を明かさない。
同じ状況であれば、まったく同じとはいかないが、どこも似た行動をとったはずだ。
告白を受けたあとも、立証ができるはずがない。
その場合でも謝罪するのか?
国の信用はがた落ちだぞ?
いや、そもそも海戦で負けなければ……日本軍を壊滅させていれば、こんなことにはならなかったのだ。
惜しむらくは日本の国力を見誤ったことか……。
そう考えを巡らしつつ、各国の意見を聞いたパーマストンは、深くうなずく。
「ありがとうございます。みなさんのご意見、よくわかりました」
「パーマストン卿、質問の意図は?」
次郎はいぶかしげな表情で見つめるが、パーマストンは静かに目を閉じ、ゆっくりと話しだした。
「Mr.オオタワ、外交とは常に難しい選択の連続です。私が直面した状況も、決して単純ではありませんでした。国益を守りつつ、国際関係を維持する。そのはざまで、私たちは判断しなければならなかったのです」
「つまり、オールコック卿の行動を黙認したのは、そういった複雑な状況判断があったからですか?」
「そのとおりです。しかし、今振り返れば、我々の判断にも誤りがあったと認めざるを得ません」
ここでラッセルが補足する。
「当時の我々は、今後の日本との関係を優位に進めていきたい思いがありましたので、オールコック卿の行動には驚きました。しかしそれによって起こった事件で、具体的に日本に対して優位に立てるカードができたのもまた、事実だったのです。結果として、最悪の選択をしてしまったのかもしれません」
「……なるほど」
次郎は一言そう言って続ける。
「本題からそれてしまいました。パーマストン卿、ラッセル卿。オールコック卿がパーシーとビルの2名をそそのかし、銃を所持させて生麦において薩摩藩の行列に威嚇射撃させた。これは事実ですか?」
「事実です」
オールコックは冷や汗が止まらず、ブルブルと震えている。さっきまで余裕たっぷりにかまえていたとは思えないほどだ。
「犯行後2人が出国できるよう手配し、上海での滞在を助けたのも事実ですか」
「そう聞いています」
今度はラッセルが答えた。
「なるほど。なるほど……なるほど。わかりました。ではもう結構です」
「 「え?」 」
パーマストンとラッセルは驚きの表情を浮かべる。次郎の突然の態度の変化に、会場全体が戸惑いを見せた。
「もう結構ですと?」
「はい、もう十分です。お二人の証言で事の真相は明らかになりました」
次郎の言葉にオールコックの顔がさらに青ざめていく。一方で、パーマストンとラッセルは困惑の色を隠せない。
「Mr.オオタワ、これで終わりとは?」
「これで十分なのです。お二人の証言により、オールコック卿の関与は明白となりました。これ以上の追及は必要ありません」
この喚問の目的はオールコック、ニール、パークスの関与解明だ。それが立証されたのだから、パーマストンとラッセルはどうでもいい。
「お二人はすでにイギリス国内で処分を受けているようなので、これ以上わが国はとやかく言うつもりはありません。しかし、オールコック卿の罪は明白です。ニール氏とパークス氏にも責任の一端はあるでしょうが、主犯は明らかにオールコック卿、あなたです。違いますか?」
オールコックは、次郎の言葉に息をのんだ。
国益のため。
そして絶対にバレないだろうという確信。
そのふたつがオールコックの態度のより所だったのだ。
しかし国益はすでに損なわれ、かつての擁護者が自身の犯行の証言者となっている。
「……です……ただ……せん」
「なんですか? 聞こえません」
オールコックはか細い震える声で答える。
「……その……通りです。ただ、ニール氏とパークス氏がどうこう、は……わかりません……」
認めた!
認めたぞ!
声には出さないが、その場にいる全員が思ったことだろう。
ここにオールコックが犯行を認め、生麦事件はオールコックの独断だったとしても、イギリスの関与により発生し、戦争の原因となった事実が明らかになったのである。
次郎はオールコックが錯乱してパーマストンとラッセルを罵倒し、暴れ回るのではないかと危惧していた。しかし杞憂に終わったようだ。オールコックはうなだれ、縮こまって見えた。
ニールとパークスは、これまでリーダー格であったオールコックのその姿を見て、すぐに自身がどうなるか? そう思いを巡らした。
次回予告 第361話 『事後処理とさらなる交渉。新たな課題』
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