慶長元年九月十日(1596/10/31)
「長官、なんの変哲もございませんな。海沿いに砦と言えるような代物はありませんぞ」
「うむ」
海軍大臣長崎甚左衛門純景からの命令で、佐世保を母港とする第一艦隊は豆満江河口周辺を索敵していた。同時に豆満江に海兵隊を上陸させている。
川の西岸に布陣している朝鮮陸軍との連絡、そして東岸を北上して満州国軍を偵察するためだ。
諫早からは一個旅団が支援のために豊後方面に出払っており、首都防衛部隊を残して、一個旅団六千名を乗艦させての航海である。
第一艦隊は豊後・伊予地震はもちろん、伏見地震の支援も第二艦隊と共同で行っていたため、申し継ぎのために日数を要した。
「ウラジオストクから岩瀬の第三艦隊が南下してくるはずですが、補給物資と陸軍の移送を考えると二月か三月はかかるでしょう」
第一艦隊司令長官であった赤崎伊予守は海軍大将に昇進し、陸上勤務をしていた。満州国の南進に対応するため第一、第三艦隊による連合艦隊が編成され、その長官に任命されたのだ。
第一艦隊司令長官の甲斐瀬鬼ノ助は年齢は伊予守の一回り下である。旧平戸松浦家臣で隻眼だが、それ以外にも眼帯では隠しきれない刀傷があり、ほかにも数か所に大きな傷があった。
「ふむ、なればしばらくはわが艦隊で処するほかないが、ヌルハチの狙いはなんであろうの」
「わかりませぬ。彼我の力の違いをまったく知らぬとは思えぬのですが……」
満州国(女真族)と肥前国は何年も前から交易していた。対明で利害が一致していた純正は、武器や弾薬をはじめとした物資の供給も行っていたのだ。
そのためヌルハチが肥前国の軍事力を過小評価しているとも思えない。
また、肥前国は明国との戦いでは明国を完膚なきまでに叩きのめしている。
その強さをヌルハチが知らないはずがなかった。
「第一長官(鬼ノ助)、見る限り小さき浦(漁村)と……浦人か、あれは? 浜に木々に、それしか見当たらぬ」
「然に候。存知の外(案外)、噂に尾ひれがついたものやもしれませぬ」
情報が少なく、憶測の段階でしかない。
豆満江の河口は広く、水深も浅かった。
大型船では奥まで入れないため、各艦より短艇部隊を編成して偵察を続けているが、川沿いには人家もまばらである。軍隊の駐屯地らしい建物も見つからない。
わずかに川を遡った場所に、粗末な小屋が数軒の小さな漁村があるだけだった。
「長官、偵察隊からの報告ですが、東岸には何もありません。人気もまばらだそうです」
「さようか……引き続き交替で斥候を出せ。警戒を怠るな」
これが数回繰り返されている。
伊予守は双眼鏡でなんども沿岸を眺め回すが、やはり何も変化がない。冬の豆満江は空気が澄んで見通しが良い。
■ウラジオストク
第十四師団第三旅団が駐屯するウラジオストクでは、純正の指示で守備に一個連隊を残し、四個連隊はすでに西進を開始していた。
越中岩瀬の第三艦隊も金沢独立旅団六千名を乗せ、補給が終わり次第出港して沿岸部の制圧に向かう予定である。
「艦長、陸の戦のために陸軍を移送するのは海軍の役目。わかってはいても、長官が羨ましいの」
「は、まず戦端となるは豆満江あたりでしょうから、彼のお方にとっては意気も上がっておりましょう」
艦隊司令長官の来島佐助通総中将は、艦長の返事にさもありなん、と答えた。
■慶長元年九月二十四日(1596/11/14)へトゥアラ
「ようお越しになった。ささ、どうぞこちらへ。おい! 肥前国の御使者なのだ、宴を準備せよ!」
ヌルハチは満面の笑みを浮かべて言った。
暖炉の火が燃え、毛皮が敷き詰められた床には豪華な食事が並べられようとしている。
へトゥアラ……ヌルハチが築き上げた女真の都は活気に満ちていた。
肥前国との交易で得た物資、特に鉄砲は、ヌルハチの勢力を拡大する大きな力となっている。明の内乱に乗じて寧夏国と同盟を結び、鴨緑江から遼東半島をへて遼河までの海を手に入れた満州国は、明の軍隊を圧倒していたのだ。
現在は遼河から天津までは寧夏国、そして天津は肥前国の領土となっているので、満州国と明国とで陸上での争いはない。
「肥前国との交易は、我々にとって非常に有益なものとなっている。肥前国王の尽力には感謝している」
ヌルハチは使者の安国寺恵瓊にそう言い、杯を差し出した。恵瓊は深々と頭を下げて杯を受け取り、一気に飲み干す。杯が返されるとヌルハチは使者の顔を見据え、低い声で尋ねた。
「さて、今回の来訪の目的は一体何であろうか?」
顔は笑っているが、恵瓊の意図を見透かしたかのようである。
「されば……豆満江の件にございます」
「ほう? 豆満江とは……一体どうされたのだ?」
ヌルハチは怪訝そうな表情を浮かべ、恵瓊は落ち着いた様子で話を続ける。
「貴国とわが肥前国は長きに渡り友好関係を築いてまいりました。しかしながら近ごろ、豆満江河口付近にまで貴国の軍が進み出で、砦を築いて河船の発着場を設けておると聞きおよびました。これはいかなる所存にございましょうや」
部屋の空気が張り詰めるが、満州国側の大臣や軍人は何事もないかのように酒を酌み交わしている。ヌルハチの表情からは、心中を読み取ることは難しい。
肥前国はヌルハチが国王となる前から女真国と交易しており、ここ数年は女真の統一のために武器や弾薬を提供していたのだ。その見返りとしてヌルハチは肥前国に交易の利権を与え、両国の関係は深まっていった。
ヌルハチは、肥前国の軍事力、そして技術力の高さを誰よりも理解している。だからこそ、この友好関係を壊すような愚行は決して行わない、そう恵瓊は考えていた。
「はて……わが兵は、貴国領土はむろんのこと、冊封国である朝鮮に攻め入ろうなどとは考えておりませぬ」
ぐいっと酒を飲み干し、もう一杯をつがせて話を続ける。
「くわえて彼の地はわが領土、自らの領土に砦を築き、港を作るのに肥前国の許しはいらないでしょう?」
恵瓊はヌルハチの言葉を聞き、静かに息を吐いた。
ヌルハチの言葉ははぐらかしのようにも聞こえるが、同時に牽制の意味も含まれている。この状況を打開するには、さらなる交渉が必要だと恵瓊は判断したのだ。
「なるほど、貴国の領土とおっしゃいますか……。ならばこれは時のかかる問題でしょうから、ひとまずはおいておきましょう」
恵瓊はそこでいったん区切り、続ける。
「朝鮮国の住民より、いつ攻め入られるかと不安な声があがっております。古来、朝鮮の民と女真族は争いが絶えなかったとか。港や村々を築くのに兵はいらぬでしょう。速やかに兵を引き上げ、職人や人夫で町づくりをすれば、なんの争いもおこりませぬ」
恵瓊は一歩も引かない。
「なるほど……確かに国境付近であれば、貴国が警戒するのも無理はない。しかし軍をもって町や砦をつくるのは、彼らがそれに慣れているからです。また、野盗や海賊より身を守りながらでは、なかなか進みません」
「……」
「ではこうしよう。貴国とわが国で、改めて国境線を策定しようではないか。その上でもし誤解があれば、速やかに解消する。これならば、貴国も納得するであろう?」
ヌルハチの提案は一見すると妥協案のように思えるが、恵瓊はその裏に隠されたヌルハチの真意を感じ取っていた。ヌルハチは時間稼ぎをしようとしている。
そして、その間に豆満江付近の軍備をさらに強化するつもりなのだ。
「承知いたしました。それならば速やかに殿下にその旨をお伝えし、この問題を解決しましょう」
かくして武力衝突の可能性を残したまま、ふたたび純正とヌルハチが相見えることになった。
次回予告 第832話 『遼東では足りぬのか、沿海州では足りぬのか』
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