第833話 『遼東では足りぬのか、沿海州では足りぬのか』

 慶長元年十一月十四日(1597/1/2)へトゥアラ

「はっきり言っておきますが、余は肥前国はもちろん、その冊封国である朝鮮と戦うつもりはありませんぞ」

 ヌルハチはそう言って純正の言葉を待った。

「戦うつもりがないのであれば、なおさら兵を引き上げるべきではないでしょうか。交易路の防衛とおっしゃいますが、そこまでの軍事力は必要ないでしょう?」

 純正はヌルハチの言葉を静かに受け止め、言った。

 茶碗の温もりが手のひらに残る感覚を味わいながら、ヌルハチが発するであろう次の質問の答えを整理する。

「平九郎殿、ご存知のとおりこの地には盗賊も多い。また、戦に敗れた明の残党もおります。ヤツらからわが民を守るためには、相応の備えが必要なのです。それに……」

 自信と余裕に満ちたヌルハチの表情を不審に思いつつも、純正は黙って聞いている。

「なんでしょう?」

「平九郎殿は、領土を増やそうとの野心はないのですよね?」

「野心? ……野心とは、他国の領土を奪って自らの領土とし、他を従えていく……その野心ですか」

 純正はヌルハチの質問の意図がわからない。

 野心の有無?

 ありなしで言えば、ない。

 自分の家族や親戚、知人や領民・国民が平和に暮らせるなら、領土などいらないのだ。

 だから答えはなし、である。

「はい、その野心です」

「ありません」

「ではなぜ、サハリンの北のさらに東の大陸(アメリカ)から沿海州までを領し、朝鮮と琉球を冊封して明より港を割譲させているのですか? 南に至っては台湾島に呂宋島、爪哇(ジャワ)や旧港(パレンバン)、果てしない南洋の島々。西は天竺(てんじく)から木骨都束(モガディシュ)よりさらに西まで領していらっしゃる。さらに葡萄牙(ポルトガル)とも盟約を結んでいる。なぜですか?」

 ?

 ヌルハチは……。

 どこまで知っているんだ?

 純正は一瞬あせったが、静かに茶を口に運んで平然を装う。




『自分の家族や親戚、知人や領民・国民が平和に暮らせるなら、領土などいらないのだ』

 最初はそうだった。

 ……しかしこうも広大な領土となって、本当にそれだけだと言えるのだろうか?




「……広大な土地を治めているのは事実です。しかしそれは侵略や征服ではなく、交易と外交によって築き上げてきた結果です」

 純正はヌルハチの目をまっすぐに見据え、言葉を続けた。

「我々は武力によって領土を広げる野心はありません。望むのは互恵関係に基づいた平和的な共存です」

 ヌルハチはニヤリと笑った。

「よくわかりませんな。我らは明の脅威がそこにあったからこそ、女真の統一を急いできた。長年争ってきた朝鮮族だからこそ、川岸に砦を築き備えている。平九郎殿が言う交易のためだけに、これだけの船団や軍勢がいるのですか? 交易のためならば、九州島から船を出せばいいだけでは?」

 ヌルハチの発言は嘘でもデタラメでもない。

 紛れもない事実で、純正は肥前国王として広大な領土を統治しているのだ。

 純正は茶碗を静かに置き、ヌルハチの鋭い指摘に対して冷静に答えを返す。

「確かに、九州から船を出せば交易はできるでしょう。しかし、それだけでは不十分なのです」

「ほう?」

「わが国の繁栄は、安全な交易路の確保にかかっています。海賊や敵対勢力から商船を守るため、各地に拠点を設けざるを得ないのです」

「ならばわれらが川沿いに砦を築き、建州の沿岸に港を築いても何の問題もないでしょう」

 ヌルハチは微動だにしない。

 理屈は通っている。外敵からの侵略を防ぐために防衛拠点を設置して備える。何の問題があるだろうか。

「ええ、貴国の立場からすればそう考えるのも無理はありません。しかし、状況が異なるのです」

「どう違うのですか?」

 純正は壁に掛けられた地図に目を向けた。豆満江の流域が赤く塗られている。

「わが国と貴国では、領土の規模が大きく異なります。肥前国の領土は広大で、その管理には相応の軍事力が必要なのです」

「そこです」

 不意にヌルハチが純正の発言を遮った。

「なぜそこまで領土を広げる必要があったのですか? 日本だけでは足りなかったのですか? 倭寇わこうは途絶えて久しいし、日本に攻め入る国もない。琉球や朝鮮と交易すればよかったのでは? ルソンやアユタヤ、富春だけでも莫大ばくだいな富を得られるでしょうに」




 オレは、何のためにここまで領土を広げてきたんだ?

 純正の脳裏にシンプルだが深い意味をもつ問いが浮かんだ。




 ■スペイン マドリード王宮

「陛下、状況から考えますと、かなり厳しいと言わざるを得ません」

「トルデシリャスの条約が100年前、サラゴサの条約が40年前なのだぞ。余の代でなぜこうも変わってしまったのだ……」

 首席秘書官のマテオ・バスケスからの報告にフェリペ2世はうなだれ込んだ。

 状況を打開するために肥前国との講和を模索し、関係が冷え込んでいたポルトガルに仲介を頼んだのだが、その返事が思わしくない。

「疎遠になっていたとはいえ、隣国であり親戚でもある余の頼みでも協力はできぬのか」

「協力ができぬ、とは申しておりません。ただ、仲介はするが、わが国に有利になる口添えはできない、と言っているようです。あくまで仲介でしかなく、その先は相手次第だと」

 マテオの答えに最近慢性化している頭痛がひどくなる。

 両手でこめかみを押さえながら、フェリペは聞き返した。

「では、肥前国との講和の条件とは、何であろうか?」

「陛下、大変申し上げにくいのですが、ポルトガルが想定する肥前国の条件は、とうていのめるものではありません」

「例えば、なんじゃ?」

「例えば……」

 そう言ってマテオは想定される肥前国の条件を列挙した。




 ・賠償金の支払い

 ・宗教的な不干渉

 ・南北アメリカ大陸西岸の割譲




「ばかな! 賠償金でさえ考えねばならんのに、割譲だと? あり得ん!」




 次回予告 第834話 『関白太政大臣小佐々純正の大義』

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