第365話 『無理か可能か、有益か無益か』

 慶応元年十一月二日(1865/12/19) 江戸 磐城平藩 藩邸

「何ですと! 次郎殿が然様さように仰せになったのですか」

 藩邸にひそかに呼ばれた小栗上野介は、安藤信正の話を聞いて驚いた。

「うむ。英国との戦の前にロシアとの駆け引きで蔵人くろうど殿が仰せになっていた話が、本当に進めていくつもりのようだ。老中院で諮るために箱館より戻ってきておる。然れど、無理であろう。いかなる話をロシアとしたかわからぬが、二百六十三万両など、いまの公儀に出せるはずもない」

「二百六十三万両ですと?」

 上野介もさすがの金額に驚いた。フランスからの借款の倍以上の金額である。

「次郎殿……いったい大村家中はいくら金を持っているのだ。賠償金で八割方賄えたとしても、先に支払う金が要ったであろうに。払ってしまえば金など残らん。家中は火の車ではないのか……」

 上野介が独り言をつぶやいていると、信正が上野介に聞く。

「上野介、いかが思うか? 蔵人どのに聞けば資金の目処はたっているようだ。大村家中がいかほどの金を持ち、いかにして金を集めるかは聞いておらぬが、アラスカを買うこと能うとな。公儀としてはいかにすべきか」

「……買うべきにございましょう」

「買うとな? 然様な金――」

「無論、無駄な金は一文も出せませぬ」

 信正が言い終わるのを待たずに上野介は続けた。

「然れど、アメリカの国債の儀もございます。次郎殿のおもわく通りアメリカは北軍が勝ち申した。まだ売らずに待てば二倍ないし三倍になると仰せです。何故なにゆえかはわかりませんが、……先を見通す力があるのでしょうか。でなければ次郎殿ほどの方、何の拠り所(根拠)もなく然様に仰せにはならぬでしょう。そうは思わぬか、篤太夫」

 上野介が連れてきたのは渋沢篤太夫。

 徳川慶喜が井伊直弼と上野介を探らせるために派遣した、渋沢栄一である。かつての政敵を調べるための人材が、いまは同じ幕閣として働いているのだ。

 慶喜も井伊時代とは随分と考え方も変わり、差異はあっても開国発展路線と公武合体、何より強力な佐幕思想で一致している。

「然様でございますね、蔵人様がアラスカ購入を考えているゆえは何でしょうか? 得心(納得)ゆかねば故のいかんを問わず金はあっても出すべきではございませぬ。お聞きになったのでしょうか」

 上野介は信正を見て確認するが、信正は複雑な顔をしている。

「いかがなさいましたか?」

「いや、それがの……実はつぶさには聞いておらぬ」

 次郎の登城が遅かったので、詳細を聞くまでもなくお開きとなっていたのだ。それに金が出せるはずもない。出せるはずもないのに、中身を議論しても仕方がないという場の流れだったのだろう。

「ではまずは聞くべきではございませんか? 聞いた上で利があると得心なさいましたら、あとはこの上野介にお任せください。篤太夫とともに利左衛門や善右衛門を説き伏せ、商人たちに金を出させましょう。徴用するのではなく、額に応じて利を配るしくみとすれば協力も得やすいでしょう。もっとも愚かなるは、大村家中の主なる導きにて買うことにございます」

 大村藩は長崎の豪商である大浦屋や、小曽根屋を中心とした九州の豪商を抱え込んで巨利を得ている。

 しかし今回の日英戦争は膨大な出費であり、ため込んでいた純資産をすべて投入する勢いであった。

 もちろん藩の内情は誰も知らない。28年分の藩の貯蓄が吹き飛ぶかに思われる出費であったが、なんとかそうならずに済んだ。勝つか負けるかのギリギリの戦争で、何とか勝利できたのである。

 分割での返済を認めない次郎の根拠、というより譲歩できない理由はここにあった。

「少なくとも領土は大村家中の所領としてはなりません。蔵人殿は日本の、公儀の代表としてロシア領事と会っているのです。大村家中の所領となっては公儀の沽券こけんに関わりますし、これ以上……」

 そう言って上野介は口をつぐんでしまった。

 以前、慶喜と話したことを思い出したのだ。

 統制経済や幕府主導の政策……。いまは折り合いをつけてうまくやっているが、合わない部分が増えてくればどうなるだろうか? 同じ話は信正ともしていたのだ。

「……言わずとも良い。わかっておる。明日はお主も登城せよ。くわえて……篤太夫と申したか。その方も上野介とともに付いてまいれ。老中の面々は有能ではあるが、数字に関してはお主らのほうが|聡《さと》いであろうからな。商人を下に見る風潮も改めねばならん」

「は、ははあ!」

 篤太夫は突然のことに驚きつつも、居住まいを正して正対し、平伏した。




 ■翌日 江戸城 御用部屋

「では蔵人殿、アラスカを買う儀にござるが、値の話の前に、何故に買うべきか。その故(理由)を教えていただきたい」

 大老安藤信正は次郎に尋ねるが、次郎はゆっくりと考えながら答える。

 答えによっては、アラスカ購入が利権の渦巻く問題に発展する可能性があるからだ。

 しかし、よくよく考えてみれば石油にしても天然ガスにしても、金や銀をはじめとする鉱物資源はまだ産出していないのだ。次郎は知っているから自信を持って買うと言いきれるが、根拠が信じられなければ、買えるはずがない。

 ただ、後からあれは日本の土地だ、公儀の差配だ何だと幕府が言ってくる可能性もある。あげくの果てに知っていたのに教えなかったのではないか? 実はすでに産出していたのではないか? などと根も葉もない疑いを持って、最悪は権利を没収しようとするかもしれない。

 蝦夷地にしても樺太にしても、先のことは誰にもわからないのだ。

 21世紀の現代なら考えられないことだが、この時代なら十分に考えられる。




 結局、次郎はありのままを話すことにした。

 信じるか信じないかは、あなた次第です。

 ……とでも言おうか。

 信じれば幸があるし、信じなくても自己責任だ。

「まずは……」

 一呼吸おいて次郎は話し始めた。

「金銀をはじめとしてさまざまなる鉱物を産する金山かなやま、ならびに石炭に臭水、それらに付随する産物。くわえて海の幸に山の幸と豊かな資源にあふれております。これがアラスカの購入を勧める唯一無二の故にございます」

 万座がざわつき、次郎のさらなる説明を待った。




 次回 第366話 『買うべきか買わざるべきか。~中略~買うならばどういう体裁で買うべきか』

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