第836話 『明の内情と三国志』

 慶長二年一月六日(1597/2/22)

「なんと! それで明け渡したのでございますか?」

「明け渡したのではない。そもそも誰の領土でもなかったであろうが」

 大陸から戻ってきた純正に対して直茂が問いかけた。新年早々小言は勘弁してくれといわんばかりの純正であったが、三十年来純正を側で支えてきた戦略会議衆の筆頭である。

 無視は、できない。

「なればこそにございます。ああ、斯様かような儀(こんなこと)ならばウラジオストクでヌルハチと相見えた際に、朝鮮の国境までわが国の領土としておくべきでした」

 昨年末、ちょうど渡海する直前に体調を崩しており、同席できなかったのだ。

 直茂が無念そうにつぶやくと、純正は反論する。

「オレもはじめはそのつもりだったのだ。されどヌルハチの言を聞くに、今までのオレの行いと重なっての。首を立てに振らねば、自らの歩んできた道を否とせねばならん」

 純正の言い分も理解はできるが、大義名分とは時と場合によって変わるのだ。

 それを直茂は言いたかった。




「して、明国の有り様はいかがだ? ヌルハチの動きに対して、もはや隣国ではなくなったゆえ動きはないか?」

 藤原千方に確認すると、千方は現時点での最新情報を純正に告げる。

然に候さにそうろう。明国はヌルハチよりも寧夏国を気にしております。わが国とは和平が成ったばかりではありますが、寧夏国に国土を割譲し、さらに楊応龍の乱を鎮めるために銭も人も使い果たしてますゆえ」

「さもありなん」

 純正がヌルハチに建州沿岸の領有を認めたとはいえ、西には寧夏国がある。

 寧夏を破り、明を南へ退けなければ満州国の勢力拡大はありえない。しかし寧夏と争って明に漁夫の利を与えてしまえば、これまでの苦労が水泡に帰してしまう。

 反対にヌルハチが寧夏との戦いを避け、遼東半島から海路で渤海を越えて天津の南に上陸すれば、それこそ厄介である。満州国には現状を維持していてほしいのが純正の本音だ。

「ふむ……」

 純正は考えていた。

 本来は南明・寧夏・楊応龍と三国で競い合わせるつもりであったが、予想どおり滅ぼされてしまう。後継者を探して明に対抗させるはずが、人材がいなかったのだ。

「殿下、いかがなさいますか?」

 直茂の問いにすぐさま純正は返す。

「陸路で接していない以上、ヌルハチが渤海を越えて明へ攻め込むとは……今は考えにくい。天津はわが領土であるからな。目と鼻の先で戦が起きれば、オレも黙ってはおれん。ヤツもそれはわかっていよう。さりとて寧夏と事をかまえるには時期尚早。もし、陸路西進するとすれば、寧夏が明と戦って南進しているスキを狙うであろうな」

 直茂はうなずいた。自らの考えと同じだったのだろう。

「然に候。それがしも同じ考えにございます。さりながら寧夏と満州国は国交を結び、対明で一致しております。明と満州国が国境を接しなくなったからとはいえ、破約とはなりますまい」

「うむ」

 純正は短く応じた。

 万暦帝が楊応龍の乱を鎮圧し、寧夏の独立を認めてからは東アジアの情勢は変わってきた。純正の大陸天下三分の計は、寧夏が北京を落として南明が成立し、四川周辺に独立勢力が存在する状態を前提としている。

 そのためには寧夏を明と再び争わせる大義名分が必要であり、新たな独立勢力の存在も不可欠なのだ。

 最低でも寧夏単独なら山東省の西岸と河南省、そして湖廣省と四川省の長江の北側を統べる形でなければならない。その上で大陸を二分する。これが肥前国にとっての理想的な大陸の在り方であった。

「千方よ、明国の情勢はいかがだ。つぶさに申せ」

「はっ」

 ・経済の衰退:貿易不均衡による銀の流出や銀と銅貨の交換レート変動による国民の負担増。度重なる戦争による国庫の枯渇が経済を圧迫。沿岸部と内陸部の経済格差も社会不安の要因。

 ・内政不安定:寧夏の独立や楊応龍の乱などの内乱により国力は疲弊。農業生産も低下。肥明戦争で国力を消耗。

 ・外圧:肥前国との貿易摩擦や、海西地方の開発が明の安定を脅かしている。海西地方の開発は明からの移民を促進し、反明感情の拡散につながる可能性も懸念。

「ふ……。なかなかにかたし(難しい)よな。万暦帝は心を入れ替えて政務に取り組み、文武百官をもって国威を取り戻そうとしておるが、厳しかろう」

「は。わが国からの輸入を抑え、銀の流出を止めようとしておるようですが、ぜいたく品の他は難しかと。輸出を増やして銀を得ようにも、明からの輸入はほとんどが金山の産物や薬草の類いにございます。輸入の際は物々交換を、輸出の際は銀での支払いを求めております」

 銀の流出を抑えつつ獲得するにはそれしか方法がない。

 新しい輸出品を創出したくても、肥前国には大抵の物がある。輸入しなくても事足りるのだ。

「また、国内にて供する銀の量を増やすために、福建・浙江の鉱山に加え、雲南の鉱山を拡大して増産につとめております」

「ほほう? 十分な量を産しておるのか?」

 スペインのガレオン貿易によって新大陸の銀がどの程度明に流入したのかまでは、さすがの純正も知らない。

「徐々に量を増やしており、産する量が安んじれば、今の銀の高騰も収まるのではないかと」

 史実でも雲南と福建・浙江省で産出して銀納がなされていたが、新大陸産の量に埋もれて大々的な採掘がされなかったのかもしれない。

「いずれにしても、明にとっての内憂外患はまだまだ続く。千方、四川や陝西省で代わりとなる者はおらぬか? 直茂、寧夏と明の間を裂く離間の計はなかろうか」

 千方と直茂は考え込んだ。

 純正の問いかけに答えるのは容易ではない。明の内部崩壊を促す工作は、慎重さと大胆さを併せ持つ、極めて困難な任務である。

「……申し訳ありません。四川、陝西省で有力な人物は見当たりません」

 千方は答えた。情報網を駆使しても、現状ではめぼしい人物は見つからない。

「然様か、ならば仕方ない。待つしかないであろう。無理に擁立したところで楊応龍の二の舞じゃ。次善の策ではあるが、寧夏を南進させるとしよう。引き続き情報をあつめよ」

「はっ」

「直茂、いかがだ?」

 直茂もまた考えを巡らせる。寧夏と明を対立させるにはどうすれば良いか。

「……殿下、一つ案がございます」

「なんじゃ」

「寧夏王の|哱拝《ぼはい》は高齢ゆえ、近ごろはたびたび床に伏せっていると聞いております」

 直茂は千方に目配せをし、確認をとった。

「ふむ」

「家督は子の哱承恩ぼしょうおんが継いでおりますが、父親とは違って欲深い男のようです」

 欲深いとは、財を蓄え贅を極める意味の強欲ではない。直茂が言いたいのは領土欲、上昇志向のことである。

「哱拝は民や兵の不満を解消し、平穏を望んだがために、独立して明に対するを良しとしておりました。然りながら彼の者かのもの(彼)が没したならば、哱承恩はさらなる平和を大義名分にするやもしれませぬ」

「つまり?」

「そこにこそ我らがつけいる隙があると言うのだな?」

「然に候。哱承恩こそ中華の王、明を倒して新たな王になる人物だと触れ回るのです。さすれば寧夏もしくは明のいずれかに新たな流れを生みましょう」

「……」

 純正は考えている。

「あい分かった。千方よ、引き続きヌルハチと哱拝、明の動静を探るのだ」

「ははっ」




 次回予告 第837話 『駐ポルトガル肥前国大使とスペイン宰相』

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