慶応元年十一月三日(1865/12/20) 江戸城 御用部屋
全員が話すのを止め、辺りを静寂が包むのを次郎は待つ。
おもむろに安藤信正に正対し、居住まいをただした。
「金山の儀につきましては、ひとえにそれがしの不徳のいたすところにございます。伏しておわび申し上げます」
平伏し、一呼吸おいて再び正対した。
「アラスカの儀につきましては、まさしく日本国のため、御公儀のためにございます」
「なに?」
信正の驚きと同時に万座にざわめきが起きた。
「公儀のため、ですと?」
「然に候」
半信半疑の信正だったが、同席していた小栗上野介はまったく次郎の言葉を信用していない。
もちろん、人間としては尊敬していた。
小藩である大村藩をここまでの大藩(事実上の)にのし上げたのだ。凡庸な人物であるはずがない。
しかし主義主張が重なるところはあっても、幕府至上主義の上野介をはじめとした幕臣と、完全に相容れるのは難しい。
日本の行く末を一番に考えてはいても、次は大村藩のはずだ。
決して日本、すなわち幕府ではない……。
彼は次郎のしたたかさはさておき、実務的な能力を買っていた。
だが夢見る将来は似て非なるものだろう。いや、なりゆきによっては似ても似つかぬかもしれない。
大村藩や領民が豊かになるならば、幕府を利用することもためらわない。それが次郎の真意だと彼は見ていた。
だからこそ、この期に及んで『公儀のため』などと大げさに言う次郎の言葉が芝居じみて聞こえたのだ。
「安藤様」
上野介は信正の近くまで立ち寄り、耳打ちする。
「ここは、ほかの御老中様がなんと仰せになろうが、事を大きくしてはなりませぬ。蔵人殿のお考えは、改めてしかと伺う方がよろしいかと」
信正は少し眉をひそめたが、すぐに上野介の意図を理解して話し始める。
「うべな(なるほど)。ならば次郎よ、お主が言う山師が見つけた金山が、そのアラスカの地に眠っておると申すか」
「然に候――」
次郎の言葉を遮って稲葉正邦が発言する。
「お待ちください。まだ話は終わっておりませんぞ」
一同の視線が再び次郎へと集まった。
事態の収拾を図ろうとする安藤信正に対し、老中である稲葉は議論を深めようとしている。
次郎と大村藩の問題行動を見過ごすつもりはないようだ。
確かに彼の言葉どおり、これを許せば前例をつくり、幕府の権威はさらに落ちるかもしれない。そのため場合によっては大村藩の動向を厳しく監視し、必要ならば断固たる措置を取るべきだと考えているのだ。
権威を守るためには、たとえ衝突しようとも、引くわけにはいかない。
稲葉正邦の強い意志が、その表情からうかがえた。
しかし現実から目を背けているわけではない。
大村藩の活躍がなければ今の日本はないだろう。十分に承知した上での言動である。その経済力も軍事力も、この場にいる誰もがわかっているのだ。
「ん、んん、ごほん」
板倉勝静がせき払いを数度して稲葉を見る。
まるで『言いたいことはよくわかる』と言わんばかりだ。それを知ってか知らずか、信正が稲葉に、そして万座に問いかける。
「各々方、今ここで、もっとも論じなければならぬのは何であろうか? この老中院は何を論ずる場所であろうか」
信正は、大村藩の功績と潜在的な脅威、その両方を天秤にかけるべきだと訴えているのだ。感情的な反発や過去の経緯にとらわれず、国家全体の利益を最優先に考えるべきだと。
彼は老中たちが冷静かつ客観的な視点から、問題の本質を見極めてほしいと求めていた。上野介が信正に伝えたこともまさに同じである。
無報告と無断渡航の件は、罪があるとしても今は糾弾すべきではない。
むしろこの機に乗じて大村藩を懐柔し、その力を最大限に活用する道を探るべきなのだ。大村藩の革新的な技術と進取の気性は、今後の日本にとって不可欠な要素となるだろう。
「……各々方、得心していただけたかな? では次郎よ、アラスカの儀、つぶさに申すが良い」
次郎よ……申すが良い。
幕閣も、純顕も次郎も、信正の言葉が変わった意味を理解した。
「皆様方、地層学なる学問をご存じでしょうか」
次郎は見回すが誰も首を縦に振らない。
「西洋の学問にございますが、この学問は……例えばなにゆえここに金山があるのか、なにゆえここに海があり、山があるのか。然様にして土地の成り立ちを、全国津々浦々世界中で考え、調べ確かめる学問にございます」
ふむ、と信正は言ったが、幕閣の面々の表情は曇っている。キツネにでもつままれたようだ。
「それを山師衆は鉱山技師として学んでおります。その術によって導き出したのが蝦夷地ならびに樺太の産物なのでございます。アラスカの地には、さまざまな鉱物資源が多く眠っておるであろう、と申しておりました」
「……して、いかほどの金が見込めるのだ?」
板倉勝静が聞き、次郎の次の言葉を待つ。なぜ断言できるのだ? と疑問に思っていたが、理解できるわけがない。
もっとも大きな関心事は……どの程度採れるかなのだ。
「は、ざっと見積もってもアラスカが十度買えるほどかと」
「はあ?」
ばかな!
なんと!
あり得ん!
同義語・類語の声が随所で起きるが、『あり得ん』とは何だ? どのくらいならあり得るんだ?
次郎の心中に素朴な疑問が起こる。
「次郎よ、よもや嘘偽りを申して我らを謀るわけではあるまいな……」
心なしか段々言葉尻がキツくなってきている気がするが、表情には出さない。
「滅相もございません。御公儀を謀るなど、あり得ませぬ」
謀った直後に言った言葉である。
しかしウソではない。
アラスカのノーム地区では現在までに360万オンスの金が産出されている。1897年の金相場では18ドル98セント/オンスであり、知っての通り現在でも価格は上昇中だ。
「うむむ、にわかには信じがたいが……然りとて、それほどの金が採れるならば、公儀にとってこれほどの財源はない」
公儀に、である。
「然りながら、仮に買うとしても、金がありませぬぞ。安藤様、いかがなさるおつもりか」
「それについてはここな上野介が答えまする」
板倉の問いに信正は即答し、指名された上野介はすぐさま渋沢を促した。
「これまでの貿易で得た資金と、こたびの鉱脈発見の報をもってすれば、利左衛門や善右衛門ら豪商からの借り入れも能いましょう。されどこたびは徴用でも借り入れでもなく、出資とでも申しますか。投資と呼んでもよいのですが、募った金の分だけ利が出た際に配するといたします。さすれば能いましょう」
渋沢は淡々と告げ、一同は再び色めき立った。アラスカを十度買えるほどの鉱脈、そしてそれを担保に豪商から出資を募るとなれば、まさに打ち出の小槌である。
「ああ、これは栄一郎殿ではありませんか!」
次郎は久しぶりに渋沢の顔を見て、思わず声をあげてしまった。上野介に随行して大村見聞に来たとき以来である。
「次郎様、その節はお世話になり申した。今は篤太夫を名乗っております」
渋沢は次郎に挨拶し、一歩前に進み出て一同を見渡した。
「ご心配には及びません。必ずや集めてみせましょう」
さすがの次郎も上野介と栄一にそう言われれば、本当にやるかもしれない、と思わずにはいられなかった。
次回予告 第338話 『くすぶる火種、されど購入は決まりけり?』

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