慶応二年一月十七日(1866/3/3) 京都 岩倉邸
次郎は正月の年賀の献上品とは別に、挨拶と近況報告を兼ねた参内を終え、岩倉具視の屋敷にいた。
幕府がアラスカの購入に動いている件を次郎から聞いており、岩倉はその真意を探ろうとしていたのだ。
次郎を奥の部屋に通し、二人きりで密談を始める。
「次郎はん、アラスカゆう土地をオロシアから買う話はほんまどすか? それが日本のためになるんどすか?」
次郎はアラスカ購入に関する件や幕閣とのやり取りを、すでに電信で岩倉に伝えている。
ただし電信では長文の説明が難しかった。
手紙でも伝えていたが、ここでも説明を求められたのだ。
「はい、真でございます。アラスカには金や銀が……」
しまった! と次郎は思ったが、後の祭りである。
アラスカの鉱山や油田に関する情報は、超極秘事項であったのだ。なぜ最北の不毛で極寒の地を買うのか?
疑問が生じるのは当然である。
さすがにこれまで朝廷工作を共に行ってきた盟友とはいえ、簡単に話しても良いのか?
次郎の頭に一瞬不安がよぎる。
「次郎はん、あんたらしゅうないどすな」
悩む暇もない。岩倉はすぐに質問を投げかけてきた。
「麿には話せぬことどすか?」
出会った頃よりも御所言葉が薄れてきた岩倉である。もっとも御所内では通常の御所言葉を使っているが、次郎と一緒にいるときはくだけた話し方をするのだ。
しかし、そのまなざしは真剣である。
「いえ、然様なことはございませぬ」
次郎はしばらく考えた後、意を決して話すことにした。信頼関係を築くためには、まず自分も相手を信頼しなければならない。
「なるほど、そんなんどしたか」
これでアラスカ購入の真実を知る人物は、江戸での会議に参加していた幕閣と大浦屋、小曽根屋、そして岩倉具視となる。
「そやけど、そうなると公儀の勢いが強まらしまへんか? 金銀をはじめ臭水や石炭、さらには海の幸や山の幸などが公儀のものになっては、逆に朝廷は弱なる」
岩倉の懸念はもっともであった。アラスカの資源は莫大な富を生み出す可能性を秘めている。それを幕府が独占すれば、財力で他を圧倒しかねない。
「その儀は心配無用でございます。アラスカはあくまで領土として公儀がロシアから買いまするが、公儀にはその金がありません。いかほど用意するかはわかりませんが、それがしは箱館に行く前に江戸に参府いたします。その際に金がなければ、わが家中が全額出して買うこととなりましょう」
岩倉は次郎の説明を聞き逃さないように真剣に耳を傾けていた。
何をするにも金が必要だ。史実の新政府は資金不足に悩んだが、今世ではこのアラスカ購入によって十分賄えるだろう。
その金を、266万両を支払ってもなお余りある大村藩の財力に、岩倉は少なからず畏怖の念を禁じ得なかった。
「また、その後に草分け(開発)をせねばなりませぬ。さらに金が要り申すが、加えて産するための技や機械が要り申す。公儀にそれはありませぬゆえ、わが家中に委ねるほか術がございません」
次郎はそう言い切った。
アラスカは広大であり、開発には莫大な費用と時間、そして何よりも技術が必要となる。
大村藩は30年来の技術開発と長崎での貿易を通じて、領内はもちろんのこと、信濃や越後、蝦夷地、さらには樺太においても実績を積んでいるのだ。
そのノウハウを活かせば、アラスカの資源開発は十分に実現可能である。
「そやけど、それでよう公儀は納得しましたな。海の物とも山の物ともつかへん土地を、なんで買うと決めたんですやろか」
岩倉の質問に対し、次郎が答えた理由は三つである。
「それは先の戦の前に、口約束とはいえ、ロシアに条件としてアラスカを買うと申していたからにございます。約を違えれば信用が失われますゆえ」
「うべなるかな(なるほど)」
「領土を買うとなれば国同士の話になります。国とはすなわち御公儀であり、外国の『がばめんと』でござるが、それが公儀ゆえ、否とは言えませぬ」
「それを『お上』と言えぬのがもどかしいの」
「は……」
本当はどちらでもなく国民である、と言いたいが、次郎はそれをいわゆる交渉の対象として考えている。
「その上で、わが家中も公儀を無体にする(無視する)ことはできませぬ。ゆえに公儀の名の下に買う形となり申した。無論、幕閣の皆様も十分に承知されていることでしょう」
名を借りて実を取る。
次郎が採った戦略だが、実利を幕府にどれだけ与えるか……。与えると言えば語弊があるかもしれないが、結局は幕府がいくら資金を提供するかにかかっているだろう。
金も人も技術も、物も出さずに口を出すのなら、早々に潰れてもらった方がいい。
幸いなことに、極端な幕府至上主義者は現在のところ存在しない。
最後の理由はアラスカの埋蔵資源に関してだったが、これは大村藩の勢力をこれ以上強化しないための苦肉の策であり、財源を確保するためのものであった。
「心配なさらずとも、それがしとわが家中は常に朝廷と共にあります。公儀と朝廷が一体となり、より良い日本を築くために、今後ともよろしくお願い申し上げます」
次郎は深く頭を下げた。岩倉はにこやかにうなずき、上機嫌である。
「あ、そうそう次郎はん、近ごろ洛中で面白い落首が掲げられているんですが、知ってはりますか?」
「落首? 存じませぬが」
「これです」
岩倉はそう言って、次郎に落首が書かれた紙を見せた。
八代かけ 築きし黄金 いかにせん 葵を倒す 今こそときか
? 何だこりゃ?
落首なら社会批判、つまり幕府への批判を意味するのだろうか。葵の旗を幕府に見立てれば、そうなるけど……。
倒幕か……? いったい誰が?
八代?
■大阪
「ふう……。なんとか集まった。集まったが……、まだ足りない」
渋沢栄一は大阪の豪商たちを集めて交渉し、筆頭である山中善右衛門(鴻池の本家)を取り込んで、20人からの出資を成功させていた。
しかし集まったのは100万両であり、上野介が命じた150万両には達していなかった。
「あと五十万両、どうしようかな……」
「ごめんやす。渋沢篤太夫さんおってですか?」
誰だろう?
見知らぬ声に不審がる渋沢であった。
次回予告 第371話 『京都にて~その2~』

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