第372話 『公議輿論のその先と京都病院』

 慶応二年一月二十四日(1866年3月10日) 京都 明保野亭

「まったく、なにゆえ斯様かよう(このよう)な世となってしまったのだ」

 数名の武士と酒を酌み交わし、愚痴をこぼしているのは清河八郎である。清河の実家は裕福な商家であり、彼の行動資金のほとんどは実家からの仕送りであった。

 それは今も変わらない。

 清河は世を憂いた志士であったが、6年前の万延元年に外国人居留地の焼き討ちを計画し、倒幕を推進しようと考えていた。

 しかし、計画は未遂に終わる。

 倒幕どころか、幕府は大村藩の協力を得て公武合体を実現し、政権を維持していたのだ。

「然様、ちかごろエゲレスとの戦いに勝ち、攘夷じょういが成ったとは言うても、成したのは公儀ではなかろう? 力なきに変わりはない」

 同席した志士たちも相づちを打った。

「まあまあ、御武家様がそう思いはるのも仕方おまへんが、力があろうがなかろうが、いずれ公儀はのうなりまっせ」

「 「なに?」 」

 京都弁ではない。

「お主、何者だ! ?」

 清河は身構えたが、男はまったく動じない。

「別に名乗るほどの者でもおまへん。ただの商人でっせ」

「ただの商人が、なにゆえ然様さように言いきるのだ?」

 男は隣の席に座っているが、清河の方は見ない。

 顔を向けずにテーブルの上にある酒を飲み、さかなをつまんでいる。

「考えても見てや。ただ今公儀は公武合体して政をしとりますけど、いつまで続くでっしゃろか? 公議輿論よろん(幅広く議論する)とはいえ、大村の御家中の力があまりにも強いのやおまへんか? 公儀はいずれ昔の威光を取り戻そうとするやろう。薩摩や長州、その他のおっきな家中にしたかて、いかにして権を強うするかの争いになるのやおまへんか?」

 清河は黙って男の話を聞いているが、ときおりうなずきながら首をかしげて考え込んでいる。

「外の敵がおれへんようになったら、内に目ぇ向けんのは必定。誰が、どの御家中がもっとも権を得るか。一度手にした甘い汁は、手放すんはやすき(簡単な)こっちゃあれへんやろう?」

「確かに、当たらずとも遠からずと言えよう。ではそれまで待てと申すのか?」

 男は『ふふふふふ』と笑いながら酒を口に含み、飲み干す。

「誰もそないなことは言うてまへん。ただし時はかかるやろうな。わてが生きてるうちにそうなったらええけど、わかりまへん。黙って倒れるのも、武力で倒すのも、どちらでもええんでっせ、わては。せやけど公儀には滅んでほしい。大樹はすでに枯れ腐れ、中は空洞の見せかけだけですからね。そのためにわての金を上手につこてくれる人がいてたら、と考えてます」

「お主、商人にしておくのはもったいないな。それがしは清河八郎と申すが、お主の名はなんと申す?」




「へえ、牧田、牧田孫兵衛と申します」




 22歳の若さあふれる商人は、そう名乗った。




 ■京都病院

「先生、お久しぶりです」

 次郎と一之進は、久しぶりに京都病院を訪れた。

 京都病院は安政四年六月十七日(1857年8月6日)の設立以来、拡張を重ね、大阪にも分院が設立されていた。江戸病院や横浜診療所と同様である。

 緒方洪庵は御年58歳。

 史実では4年前に亡くなっているはずだが、一之進らのしつこすぎる介入により、健康を保っている。

「これはこれは、御家老様。一之進様も、よくお越しくださいました」

 一同は積もる話もあったが、お互いに業務が忙しかった。

 洪庵は業務に戻り、一之進と信之介は院内を回りながら会話を交わす。

「幸経様の具合いはどうなんだ?」

 九条幸経。

 鷹司政通の三男で、史実では安政6年(1859年)に亡くなっているはずだが、現在も生きている。

「現状維持だね。症状の悪化は見られないから、現時点では白血病の可能性は低い。再生不良性貧血・出血の可能性が高いかな。何度か危険な状況もあったけど、止血と輸血でなんとかしのいだ。悲しいが、今はこれしか方法がない。でも輸血ができるのは大きいな」

 一之進は淡々と答えた。

 大村藩では様々な技術革新が行われているが、医療に関しては一之進の信念に基づき、損得を考慮せずに他の藩にも提供している。

 次郎も容認していた。

 事実、輸血技術は多くの人命を救っているのだ。

 生麦事件のイギリス人や、上海で襲撃を受けた2人のように、歴史を変える技術開発が進んでいる。

 現在に比べると大規模ではないが、血液バンクも存在し、感染症のリスクを減らすために細心の注意を払って運営されていた。




「先生! 大変です!」

 若い医師が血相を変えて駆け込んできた。

「なんだ、騒がしい。病院なんだから静かにしなさい」

 一之進に叱責しっせきされた医師であったが、どうやらそれどころではないようだ。

「いったいどうしたんだ?」

「院長が、院長が血を吐いて……」

「なんだって? どこだ?」

「三号室です。回診中に急に!」

「すぐにオペ室の準備をしろ! 患者を運べ! 急げ!」

 次郎に詳細はわからないが、異常な状況だと認識した。

「まずいのか?」

 走りながら一之進に聞く次郎。

「ああ、やばい。歴史どおり、食道静脈りゅうが破裂したかもしれん。賭けだ。残念だが、死ぬかもしれない……」

 一之進は悲痛な面持ちであったが、自分ができる限りの処置をしようと心に決めていた。




 ■オペ室

「輸血と内視鏡、バルーンタンポナーデの準備」

 事前に指示されていた器具が並ぶオペ室では、一之進の指示のもと、洪庵の治療が行われていた。

 助手の医師や看護師は、一之進の言葉に懸命に耳を傾けている。

 赤黒い血が止まらない。

 一之進の表情は厳しく、時間との勝負であることを物語っていた。

 しかし、幸いなことに、まさに幸いなことに、である。




 これまで内視鏡の原理自体は存在していたが(一之進がいるため当然のことだ)、照明がなかった。

 そこで電球が発明される。

 すぐさま一之進は早速信之介に働きかけ、原始的ではあるものの、奇跡的に内視鏡を実用化させていたのだ。

 食道または胃からの出血の可能性が高いが、断言はできない。

 どこに静脈瘤があり、破裂したのかを断定できないのだ。

 一之進は洪庵の診察歴や病歴を調べ、食道に問題があると結論づけたが、確信は持てない。

 内視鏡による初めての診察である。




 正直なところ、賭けに近い部分があった。




 次回予告 第373話 『その後』

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