慶長二年八月十九日(西暦1597年9月30日)
小樽鎮守府から北米大陸西岸の探険結果と、スペイン探検隊との遭遇に関する報告が届いてから、1年半が経過している。
探険の拠点はアンカレジであったが、その後アラスカ州シトカに新たな拠点を建設した。さらに南下してワシントン州タコマを経て、現在はサンフランシスコを拠点としている。
純正の歴史上の知識によれば、スペインが北米西岸を北上して本格的に入植を始めたのは17世紀末であり、今世でも同じだ。
発見し、一方的に領有を宣言しているが、入植は行っていない。
それも、同じである。
アステカ王国の王家の子孫とインカ帝国の皇帝との接触は、ハワイ鎮守府を拠点に、トゥアモトゥとガラパゴスを経由して行われた。
メキシコシティ(テノチティトラン)へは、サン・ブラス(ナヤリット州)に上陸し、陸路で移動する。密偵は一人ではなく、複数で数グループを形成して接触を試みた。
これはインカ帝国の皇帝に対しても同様である。
ペルーへの経路はガラパゴスからチンボテ(ペルー北部)であるが、両地点とも拠点ではない。月に一度沖に停泊し、小舟を出して連絡を取った。
発 ア諜報 宛 情報省
アステカ皇帝の子孫、クイトラワク接触セリ。イスパニアニ対シテ反乱支援ト連携申シ出ルモ、信ヲ得ラレズ。慎重ニ対応スルトノ事。情報収集ヲ継続シ、状況変化アレバ直チニ報告セン。
発 イ諜報 宛 情報省
皇帝トゥパク・アマル接触セリ。軍事支援申シ出ルモ、未ダ返事ナク、慎重ヲ期ストノ事。然レドスペイン大攻勢懸念セリ。情報収集継続シ、変化アレバ直チニ報告セン。
「さて皆の衆、いかが思うか?」
戦略会議衆の面々は、純正の問いかけに沈黙した。
アステカとインカの末裔への接触は、成功とは言いがたい。確かに反乱支援を掲げれば、大義名分としては成立する。
しかし、彼らの信用を得るには至っていないのが現状だ。
「殿下、よろしいでしょうか」
会議衆筆頭の鍋島直茂が声をあげた。
「うむ」
「ここは、動かぬがよいかと」
直茂の言葉に、他の者たちも同意してうなずいた。
現状ではアステカとインカの末裔たちは警戒を解いていない。こちらから積極的に働きかけると、彼らの警戒心をさらにあおり、逆に関係が悪化する恐れがある。
まずは彼らの動向を静観し、信頼関係を築くための機会を待つべきだろう。
それに、特に急ぐ必要はないのだ。
「つぶさに申せ」
直茂は一呼吸置いて、言葉を続けた。
「イスパニアは今、欧州での戦いに注力しており、新大陸への大規模な増援を送る余裕はないでしょう。九郎からの便りのとおり、何もせずともよいですし、ゆるりと構えて備え、時が来れば相応の行いを為せばよいかと存じます」
直茂の言葉は、現状を冷静に分析し、最善の策を示していた。
焦らず機を待ち、好機を逃さずに行動する。それが、この状況を打開するための最良の戦略だと考えていたのだ。
「然りとて、彼らの信を得る要はあるかと存じます。いかにして信を得ますか?」
官兵衛が直茂に具体的な方法を確認した。ただ現地で暮らし、情報を収集するだけでは意味がない。
「本来ならば交易をしたいが、目立ちすぎる。ゆえにイスパニアの情報のみを伝え、何かあれば味方であると伝え続けるのだ。無論、戦道具の助力は惜しまぬとな。なに、いずれ向こうから声をかけて来よう」
「それは何ゆえにございますか?」
官兵衛の問いに対し、直茂は静かに答えた。
「イスパニアの財政は火の車。それが世界を二分するとは笑わせる。国家が民草に対して破産を申し出るとは、体を成しておらんではないか。その財政を支えておるのは、アメリカからの銀に他ならぬ。その銀をさらに多く得るため、先住の民を殺してもかまわぬ勢いで働かせておるのだぞ」
直茂の言葉に、官兵衛は深い洞察と静かな自信を感じた。
「いずれ恨みがたまり、一揆を起こすであろう。それまで待てばよいのだ」
直茂の言葉は事実である。
ミタ労働と呼ばれるスペインが南米の先住民に課した強制労働が存在し、その過酷さは想像を絶していた。
多くの人々が鉱山や農園で命を落とし、その怨嗟の声は日増しに大きくなっていたのだ。いずれその怒りが爆発することは、火を見るよりも明らかである。
「あい分かった。では、そのように進めよ」
純正は静かに命令を下した。
■メキシコシティ
「お願いします! 止めてください!」
メキシコシティ(テノチティトラン)の中央広場で、若い女性の叫び声が聞こえた。
「ええい、うるさい! 離さんか!」
スペイン兵にすがりついて叫んだ女性の手が振りほどかれる。
小さな店を夫婦で営む若い女性が、夫を鉱山労働者として連れ去られまいと抵抗していたのだ。
鉱山で働く鉱山労働者の多くが事故で死んでしまい、ここ数日労働力不足を補うために臨時徴用が実施されている。しかしすでに過酷な状況にある中で、さらに追い打ちをかける仕打ちであった。
人々は皆、うつむき、抵抗する力すら残っていない。
希望を失った彼らに残されたのは、静かな絶望だけだった。
■ペルー ビルカバンバ
「陛下! 南の渓谷にイスパニア兵が現れました! その数は5,000名です!」
「5,000だと? 前回よりも多いではないか」
トゥパク・アマルは険しい表情で報告を聞いていた。ビルカバンバは、インカ帝国の残存勢力の最後の拠点である。
クスコを追われた彼らはこの地に立てこもり、ゲリラ戦を展開しながらスペインの侵略に対抗していた。
しかし、スペイン側の攻撃も徐々に激しさを増してきている。
「これ以上犠牲が出れば……もはや、時間の問題か……」
スペインの目的は、ポトシ銀山の産出量を増やすための労働力の確保である。そのために、頑強に抵抗を続けるトゥパク・アマルへ大攻勢をかけようとしていた。
次回予告 第844話 『渓谷の戦い』

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