慶応二年三月十五日(1866年4月29日)
大村藩邸の応接間で、次郎と中居屋重兵衛が向かい合って座っていた。
障子越しに差し込む陽光が、畳の上に柔らかな影を落としている。
「久しいな、大村の海軍伝習課程を卒業して以来ではないか」
次郎はほほえみながら言った。重兵衛は目を細め、懐かしそうにうなずく。
「ご無沙汰しております。あの頃は大変お世話になりました」
重兵衛はかつての大村の情景を懐かしんでいる様子だった。
しかし、その表情はわずかに曇っている。幕府の貿易制限に対する不満が、その目に浮かんでいたのだ。
「万延の砌には大変な苦労をしたと聞いた。お主の責もあるとはいえ、公儀が商いを差し止めるとは、いささか重い気がいたしたがの。近ごろはいかがか」
次郎の問いかけに重兵衛は一瞬言葉を失った。
「実は……五品江戸廻送令のせいで、上手い具合に商売が進みません。このままでは」
ふむ、と次郎はうなずいた。
「廻送令よな……あれはあれで良いが、外国商人からも苦情が出ている。痛しかゆしであるな」
重兵衛は商才に優れ、次郎は高く評価している。
だからこそ『一悶着』があったと聞いたとき、彼に新たな商機を提供したいと考えていたのだ。
この状況を打破する方法を探しているのかもしれないが、幕府には逆らえないので、その苦悩が表情に表れている。
「それで中居屋重兵衛、そなたはいかがいたすつもりなのじゃ? ただの懐かしさで、わざわざオレに会いに来たわけではなかろう?」
次郎はニヤリと笑みを浮かべた。
重兵衛の胸の内を探ろうと、その表情をじっと観察する。
相手の感情を読み取るのが上手かったので、彼が抱いている野心を見抜いているのだ。
閉塞感が漂う現状を打破し、再び商いの世界で活躍したいと重兵衛は考えている。
「それは……」
考えてはいても、実際は困っていた。
「実のところ、八方塞がりにございます。幸いにも財産の差押えはありませんでしたが、この先も貿易ができないとなれば、先細りにございます」
重兵衛の言葉に、次郎は静かにうなずいた。
「うべな(なるほどな)。然れどそなたほどの人物が、ただ嘆いているだけとは思えぬ。何か考えがあるのか?」
次郎は重兵衛が内に秘めている野心を見透かしている。ただの商人ではなく、時代の変化を敏感に感じ取る重兵衛の才覚を高く評価していたのだ。
「実は……御公儀が蝦夷地の……北方開発に資金を集めていると聞きました。今や大村御家中の名を知らぬ者はおりませぬ。御家老様も、大村御家中も加わっているのではございませんか? そもそも蝦夷地は大村と松前の御家中が開発していたはずにございます」
次郎は重兵衛の言葉に満足そうにうなずいた。
確かな情報網を持っている証明である。
「その通り。わが家中は蝦夷地の開発に深く関わってきた。然れど、そうだな……いかがいたそうか」
重兵衛にアラスカ開発の詳細を話してもいいのか。
大浦屋と小曽根屋は三十年来の付き合いがある。お互いに一を知れば十を知る関係でもあるのだ。
2人には正直に話したが、重兵衛はどうだ?
商人としての能力は高い。だが、大浦屋や小曽根屋が築き上げてきた長年の信頼関係には至っていない。
しかし、重兵衛の持つ情報網と行動力は、アラスカ開発に必ず役立つはずだ。それにこの機会を逃せば、重兵衛は他の藩に寝返ってしまうかもしれない。
「実はの……」
意を決して、次郎は口を開いた。
新たな土地の開発には、いくら資金があっても多すぎはしない。
「さらに北にも似た土地がある話を耳にしてな」
重兵衛の商人としての直感が、その言葉の真意を察知した。
商人は利に聡い。その嗅覚を存分に発揮して、獲物を狙うのだ。
「さらに北にある土地とは……」
重兵衛は言葉をのみ込み、真意を探っている。
「蝦夷地の先に広大な土地があり、金山(鉱山)の幸も豊かと聞く」
次郎は意図的に曖昧な言い方をした。重兵衛の反応を見極めるためだ。
「まさか……ロシアの領地を?」
重兵衛の瞳が輝きを増す。次郎は静かにうなずいた。
「ロシアが売却を考えている」
「その土地は……いかほどの広さにございましょう?」
重兵衛の声が僅かに震えていた。商機の大きさを直感的に感じ取ったのだ。
「蝦夷地の数倍はある。金や銀は無論だが、毛皮や魚介類も豊かだ。まだ手つかずの土地がほとんどでな」
次郎の言葉に重兵衛の呼吸が荒くなった。様々なおもわくが彼の胸中を駆け巡っているのがありありと分かる。
噂ではない。
確信しているはずだ。
この目の前にいる御仁は、ただの噂でここまで話を進めるはずがない。あくまで表向きに、そう言っているだけのはずだ。
重兵衛は直感した。
「その土地の開発に……私めも加えていただけませんでしょうか」
重兵衛の声には、抑えきれない期待があふれていた。次郎はゆっくりと茶碗を置き、じっと重兵衛を見つめる。
「……あい分かった。子細は後ほど詰めるといたそう。わかってはおると思うが、厳に他言無用ぞ。もし他にもれたならば、まずお主を疑う。よいな?」
「ははっ」
重兵衛は平伏し、目の前の畳を見ながら、拳を握って喜びをかみしめた。
■小栗家屋敷
「篤太夫よ、ご苦労であった」
平伏している渋沢に向かって、小栗上野介はねぎらいの言葉をかけた。
しかし渋沢は平伏したまま言葉を続ける。
「お心遣い、真にありがとうございます。御意に背かぬよう精一杯努めましたが、申し訳ありませぬ。百五十万両に、あと二十万両届きませんでした」
小栗は、わずかに目を見開いた。
「なに、それほどまでに難しであったか。そうよの……御用金につぐ御用金で、商人もこれ以上公儀に金は出したくないのかもしれんの。是非もない」
「は、力及ばず申し訳ありませぬ」
渋沢はなおも頭を下げたまま、全身を強張らせている。
上野介が自分を信じて任せてくれたのに、目標額に届かない報告をせざるを得なかった悔しさが、その背中から伝わってくる。
「されど篤太夫。お主の尽力は十分じゃ。むしろよくぞここまで集めてくれた」
上野介の声には温かみがあった。渋沢の努力を、心から評価している様子がうかがえる。
「上野介様、三野村利左衛門様がお見えになりました」
小姓の声に、上野介と渋沢は顔を見合わせた。
「これは……ちょうど良い。通せ」
障子が開き、三野村利左衛門の姿が現れた。
着物の一つ一つのシワまで丁寧に整えられ、帯の結び目も完璧な角度を保っている。三井家の大番頭の立場にふさわしい、几帳面な性格が外見からもにじみ出ていた。
「上野介様。こたびはお呼び立ていただき、ありがとうございます」
利左衛門は背筋を伸ばし、丁寧に礼をする。
その視線は既に部屋の隅々まで行き渡り、渋沢の存在にも気づいていた。商人特有の観察眼が、わずかな間にも周囲の状況を把握している。
「利左衛門よ。今日は急なお呼び立てをして済まぬ」
上野介の言葉に利左衛門は首を横に振る。
「いいえ、むしろ私めから伺いたい儀がございました」
「ほう、なんじゃ?」
利左衛門の表情が引き締まる。普段は穏やかな瞳に、鋭い光が宿った。
「蝦夷地開発の儀、私めも二十万両を出資いたしたく」
畳に額をつけていた渋沢は、思わず顔を上げた。
まさにその金額が、足りない金額と一致する。三野村は渋沢の反応を見逃さなかった。
「さすがは利左衛門じゃ、鼻がきく。各所に文は書いておったが、江戸の商人はみな二の足をふんでおってな。お主が一番じゃ」
呼んだとはいえ、利左衛門の来訪を予想していたのか、していなかったのか。
上野介は渋沢に顔を上げさせ、笑顔で利左衛門に声をかけた。
「とんでものうございます。恐れ多いお言葉にございます」
利左衛門は満面の笑みで問い返した。
やがて利左衛門の視線は、上野介の顔から渋沢へと移る。その鋭い観察眼は渋沢の表情から何かを読み取ろうとしていた。
「お噂はかねがね。こちらの方が噂の渋沢殿ですか」
利左衛門は軽く頭を下げた。
「これはこれは、三野村殿。この度は蝦夷地開発にご賛同いただき、誠にありがとうございます」
渋沢も頭を下げる。
利左衛門の言葉は社交辞令ではない。三井家にとって、蝦夷地開発は大きなビジネスチャンスなのだ。
チャンスを逃すまいとする利左衛門の強い意志を、上野介も渋沢も言葉の端々から感じている。
「いえ、これは私めにとって願ってもないお話です。上野介様、詳しいお話をお聞かせ願えませんでしょうか」
利左衛門は上野介に向き直り、静かに頭を下げた。
■江戸 加賀藩邸 夜半
「さて各々方、ごたびお集まりいただいたのは他でもない、大村家中の儀にござる」
加賀藩主の前田斉泰は、藩邸に集まった山内容堂、毛利敬親、島津忠義、伊達慶邦、そして松平春嶽に対して声を上げた。
「その前に前田殿」
そう言って進行を妨げたのは長州藩主の毛利敬親である。
「われらの集まりに、なにゆえ商人が加わっておるのか、お伺いしたい」
「……その儀は薩摩殿、お話しくだされ」
「は」
斉泰に促されて島津忠義が話し出す。
「この者は牧田孫兵衛、またの名を淀屋清兵衛と申します」
実は忠義と斉泰は孫兵衛とは面識があった。
窮乏する藩の財政を、多くの藩は商人からの借金でしのいでいたのだが、薩摩と加賀も例外ではなかったのだ。
薩摩藩は借金を250年払いにしていた。
その代わりではないが、孫兵衛からの要望があり、蝦夷地開発に一枚かませてくれと頼まれたのだ。
蝦夷地開発(実際はアラスカ)は全員の知るところであったし、上野介からは各藩からの出資を頼まれていたのだ。
しかし、余剰金などない。
あったとしても金額の多寡によって藩の優劣が出てしまう。
資金的に厳しい点と、プライドが許さない。その二つが原因で、どの藩も出資していなかった。
「孫兵衛が申すには、その蝦夷地の開発に出資をしたい、されど伝手がない故、我らを頼りたいとの由にございます。先だって渋沢篤太夫の申出を断ったので、いまさら言い出しにくいと」
正確には、渋沢から出資の話合いに出てくれと言われていた。
しかし、孫兵衛は表向き幕府の徴用や徴発に従ってはいたが、先祖の恨みがあるため不本意だったのだ。
病気を理由に欠席し、幕府への出資は見合わせた。幕府も徴用ではないのが建前のために、無理強いはできない。
「こたびの蝦夷地の開発の儀は、御公儀が主と伺うとりますけど、その実は大村家中にございましょう? ほな、放っといたら今以上にあの家中の権が強うなります。せやけど、そら皆様方の望むところではおまへんのと違いますか?」
全員が顔を見合わせた。
当たらずとも遠からず。
いや、言い得て妙であった。
「確かに……大村家中の勢いは無視できぬ。あの男の才覚は認めざるを得ないが、いかんせん、公儀を差し置いての行いが目につく。蝦夷地の開発にしてもそうじゃ」
山内容堂が煙管をふかしながら、重々しく口を開いた。
容堂は他の藩主たちの顔色をうかがう。それぞれの表情には、同意と同時に一抹の焦りが見て取れた。
容堂だけではない。
日英戦争の際に薩摩と長州は軍艦を出して参戦し、成果を上げていたが、土佐と加賀、仙台藩は国内の防備のみであった。
目に見える成果がないのだ。
特に大藩である加賀の前田斉泰の焦りはもっとも大きい。
「表向きは公儀の事業だが、その実は大村家中が牛耳っておる。このままでは、公儀の権は失墜するばかり……。よしんばそれは致し方ないとしても、誰がその実りを得るのだ?」
容堂の言葉は、他の藩主たちの胸に深く突き刺さった。
幕府の弱体化は、諸藩にとって好機である。しかし、その隙を突いて大村藩が台頭するならば話は別だ。
斉泰は深くうなずき、扇子を軽くたたきながら容堂に続く。
「然様。彼の家中のやり方は、あまりにも露骨すぎる。我らは公儀の衰えを静観し、やがて来るべき時に備えている。されど、その果実を大村に横取りされて良いのか?」
伊達慶邦は眉間にシワを寄せ、腕を組んだ。
「それに、あの男は朝廷にも顔が利く。公武合体などと言っておきながら、裏では朝廷と通じているフシもある。もし、大村が朝廷と手を組めば……我らは窮地に立たされる」
慶邦の声には、大村藩への警戒心が色濃く出ていた。他の藩主たちも、それぞれに大村藩の台頭を脅威と感じている。
だが、全員が次郎の能力や実績は認めており、行動そのものは正しいと、保険をかけた物言いだ。
忠義はあぐらをかき直し、孫兵衛を鋭い視線で見据える。
「孫兵衛。お主の真意を問う。まさか我らを利用して、大村に取り入る魂胆ではあるまいな?」
部屋の空気が張り詰めた。孫兵衛は忠義の視線から逃げず、静かに頭を下げる。
「滅相もおまへん。わての願いは、願いは一つ……」
孫兵衛は居並ぶ大名を見回し、意を決して発言する。
「公儀が消えてのうなる。これだけにございます。公儀を倒す、これがわての願いだす」
! ! ! ! !
「痴れ者が! お主、ようもヌケヌケと我らの前で!」
松平春嶽が声を荒らげた。
それは政事総裁職の立場からなのか、それとも別に理由があるのだろうか。
「まあまあ、まあ、聞こうではありませぬか、春嶽殿。落ち着きなされ」
傍らできていた斉泰がなだめる。
「牧田、と申したな。いや、あえて淀屋と呼ぶべきか。清兵衛よ、深い考えがあるのであろう? 申してみよ」
「はは。皆様に資金を供させていただくんは無論でっけど、まずは安政の末に定められた、『兵備輸入取締令』にございます。これの廃止を、公儀に認めてもらわなあきまへん」
「兵備輸入取締令?」
孫兵衛は自身の計画を話し始めた。
次回予告 第375話 『淀屋清兵衛の策略』

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