慶長三年一月二十七日(西暦1598年4月9日) 諫早
「これはこれはフュンドン殿、遠いところわざわざようお越し下さった」
「いえいえ。伊集院殿も安国寺殿も、お元気そうでなによりです」
ヌルハチの腹心、フュンドンが肥前国首都の諫早を訪れるのは2度目である。5年前に対明戦の援助を申し出たが、純正は却下していた。
「して、こたびはいかなる御用向きでしょうか。明を攻める手伝いなら、以前も殿下御自らお断りになったはずじゃが」
「今回の訪問は、その件ではございません」
フュンドンは丁寧に頭を下げた。
その体つきは相変わらず大柄でたくましく、毛皮の衣装が肩幅を一層際立たせている。
「ほう」
安国寺恵瓊は柔和な表情を浮かべながらも、その眼光は鋭い。彼の隣で、伊集院忠棟は静かに茶をすすっていた。
「ハーンより、明への出兵をお伝えしたく参りました」
「出兵とは……それは、前回と同じ話ではないのですかな?」
恵瓊は穏やかに問いかけた。しかし、その声音にはかすかな警戒がにじんでいる。
「いいえ。今回は、ただ貴国の不干渉の言質をいただきたく……」
フュンドンの言葉は、襖の開く音で中断された。
「お待たせいたしました」
純正が入室してきた。
その顔には年月を重ねたシワが歳相応に刻まれているが、同年代に比べると若く見える。そのまなざしは昔と変わらず鋭い。
「ヌルハチ殿からの使者とは」
純正は上座に腰を下ろすと、フュンドンを見つめた。
「はい。ハーンより、山東への出兵に関する……」
「山東か」
純正は目を細めた。
ヌルハチの意図は明らかだった。渤海を渡って山東に上陸し、北京を目指す。寧夏との戦いを避けての迂回作戦である。
「五年前の話が本当ならば、ここで不干渉の言質をいただいても何ら問題はないかと思います。いかがでしょうか?」
「……不干渉の言質とな。面白い申し出だ」
純正の表情からは、フュンドンの言葉の裏に潜む真意を見抜いている余裕が感じられる。
純正は茶碗を手に取り、ゆっくりと一口すすった。
「だが、天津は北京から三十二里(約129km)、山東から馬で十四日の距離(約533km)ぞ。戦火に見舞われぬと断じれるのか」
フュンドンの表情が一瞬こわばったが、想定の返答である。確かに天津と山東は近いが、北京への進軍に差し障りはない。
「我らは天津を経由せずとも……」
「いや、その点は心配には及ばぬ」
純正は机上に広げられた地図に目を落とした。そこには渤海湾を挟んで向かい合う天津と山東が描かれている。
指で両地点を示しながら静かに続けた。
「わが国は貴国の明への進軍を妨げはせぬ。ただし、天津近海での軍事行動は避けていただきたい」
「それは……」
「見返りとして、わが国も貴国の行動に干渉はしない。これが我らの条件だ」
純正の言葉に、フュンドンは深くうなずいた。それは事実上の承諾を意味していた。
「それと今一つ、そうはならんと思うておるが、海路を封じられれば天津は孤立いたす。然様な仕儀(事・なりゆき)は万が一にもなかろうな?」
純正の真意はわからない。
渤海を完全に封鎖するほどの力は、今のヌルハチにはない。牽制と釘差し、その程度であろう。
ニヤリと笑みを浮かべ、フュンドンに念を押す。
「滅相もありません。万が一、百万が一もあり得ませぬ。もとより、それはわが国も同じです。貴国海軍の精強さは天下で知らぬ者はおりません。逆に海路を封じられれば、困るのは我らにございます。貴国の軍に戦いを挑むなど、愚の骨頂にございます」
純正は満足げにうなずいた。
フュンドンが言葉を選び、慎重に話を進める様子からはヌルハチの意図が明白だ。天津への配慮を示しながら、明への侵攻を認めさせようとしている。
「では、わが国は貴国の行動に干渉せず、貴国も天津近海での軍事行動は避ける。これにて話はまとまったな」
「はい。ハーンにもその旨伝えます」
フュンドンの目が僅かに輝いた。純正の言葉は事実上、明への侵攻を容認したに等しい。
「ただし……」
純正は言葉を区切った。その表情にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「寧夏への配慮も忘れてはならぬ」
「は……はい」
フュンドンの声が僅かに震えた。寧夏への言及は想定外だったのだ。純正は続ける。
「哱承恩は父の遺志を継ぎ、領土の維持に努めておる。貴国が山東を攻めるのは構わぬが、寧夏に攻め入ればわが国も黙ってはおれぬぞ」
純正の言葉に込められた重みを、フュンドンは痛いほど感じ取っていた。
純正がこの会談の裏で調略をかけつつ、哱承恩が明に宣戦するよう策略を巡らしているなど思いも寄らない。
3国の間でもっとも強いのが、弱体化しているとはいえ明である。満州国が明を攻めるならまだしも、寧夏を攻めて明を利するなら、防がなければならないのだ。
■数日後
「明国礼部尚書、顧憲成にございます」
「これはこれは顧憲成どの、今日は何か重要なご用件ですかな?」
相手国をランク分けしている訳ではない。
通常はカウンターパートとして外務大臣、もしくは副大臣、あるいは外務官僚が対応する。
しかし明国の場合は純正ができる限り会っていたのだ。
明は中華の覇王ではなくなり、ただの一王国として存在している。
ただし、一応は体裁を整える意味で他国と区別し、大国として遇していたのだ。それは相手の顧憲成も十分に理解している。
「ありがとうございます。貴重なお時間をいただいていますので、手短に申し上げます」
「うむ」
「わが国と貴国とで、安全保障上の条約を結びたいのです」
「然様か」
純正は顧憲成の提案に対し、静かに目を細めた。その表情からは何の感情も読み取れない。
「つぶさには何を望まれるのかな?」
「はい。わが国と貴国は、互いの領土を尊重し、不可侵を約束する。また、第三国からの侵略があった場合は、互いに援助する……」
顧憲成の言葉を聞きながら、純正は相手の真意を探ろうと表情を観察する。今回は降伏交渉でもなければ宣戦布告でもない。
あくまで建設的な会談なのだ。
自国に利益がなければ結ぶ意味がない。
「いやいや待たれよ。第三国からの侵掠、とは?」
「はい。例えば、北方からの女真族や、西方からの……」
「うべな(なるほど)。では貴国は満州国や寧夏国を、侵掠してくるやもしれぬ国と考えておるのだな?」
「いえ、そういう訳では……」
顧憲成は否定したが、そんなはずはない。
明は衛所制を用いて女真を間接統治してきたが、ヌルハチの祖父と父親を殺害した経緯があり、関係は険悪であった。
寧夏国にいたっては領土を割譲しているのである。
仮想敵国と想定しても、なんらおかしくはないのだ。
「隠さずともよい。オレが同じ立場なら、そう考える」
顧憲成は苦笑いを浮かべた。
その表情には、かつての明の威光が失われ、一国として生き残りを図らねばならない現状への複雑な思いがにじんでいる。
「実は、女真の動きが気になっておりまして」
「ほう」
「最近、渤海湾周辺で軍船の往来が増えているとの報告が上がっているのです」
純正は顧憲成の言葉に目を細めた。フュンドンとの会談よりも前に、ヌルハチは行動を起こしていたのだ。
「山東方面への進軍を警戒しておるのだな」
「はい。もし彼らが山東に上陸すれば……」
顧憲成の言葉は途切れたが、その意味するところは明白だった。北京が危機に陥る。
「では、わが国に何を望むのだ?」
純正は問いかけたが、すでに答えは分かっていた。明は肥前国の軍事力を後ろ盾に、女真の侵攻を牽制したいのだ。
「貴国の力で女真兵の北進を妨げていただきたく」
顧憲成は丁寧に頭を下げた。その姿に、かつての明の威厳は微塵も感じられない。屈辱的ではあるが、背に腹はかえられないのだ。
顧憲成は自分の頭一つで国を救えるなら、何度でも下げようと考えている。
純正は黙って目を閉じた。明の要請を受け入れれば、女真との約束に反する。かといって拒否すれば、明は寧夏と手を組むかもしれない。
いや、それはないか。
明と寧夏はそこまで利害が一致していない。同盟を結んで女真に対抗したとして、明に利益はあっても寧夏にはない。
明の力が回復するだけだ。
そもそも寧夏と女真は哱拝の代に対明国で同盟を結んでいる。
今、自国に攻撃を仕掛けていない女真に対して事を起こすだろうか?
仮に戦争したとしよう。
遼河の向こう側、遼東半島まで寧夏国が版図に組み込めば、女真と明に挟まれる。明は表向き友好を装ってはいるが、国力が充実したならば、どう動くかわからない。
やはりここは、利害両面で考えても寧夏が明と組むとは考えにくい。むしろそれに乗じて明の領土に攻め込む公算が大きい。
「正直なところ、戦はもうウンザリなのだ。他国の戦に介入はしたくない。それに介入するとして、わが国にどんな利があろうか」
純正は当たり障りのない返事をした。
しかしそれは事実だ。介入するなら、相応の利益がなくてはならない。ここで明に味方しても何の利益もないのだ。
「……」
顧憲成はうつむいたまま返答に窮していた。純正の言葉は理不尽ではない。むしろ当然の疑問だった。
「わが国としましては、貴国への見返りとして……」
「いや、そなたに決定権があるとは思えぬ。まずは持ち帰られよ」
純正は穏やかな口調で言ったが、その奥では『もう少しだな』と感じていたのだ。
「はい……」
顧憲成は深々と頭を下げ、後ずさりながら退室していった。
「まあ、持ち帰って考えている間に、ヌルハチが攻めいろうがな」
次回予告 第848話 『山東から北京へ。寧夏の決断』

コメント