慶応二年五月十二日(1866年6月24日)
「Oui, je pense que c’est une bonne idée.(はい、これでいいと思います)」
駐日フランス帝国全権公使ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュは、幕府からの出品目録を見て言った。
なんだこれは?
円盤式? また新しくなったのか?
持ち運びカメラは輸出されていないから、ヨーロッパの人々が驚くのは間違いない。
ガソリンとは何か? 原油を精製して作るのか? 照明用の油を動力に?
訳が分からない。
それにこの銃は一体何なんだ? 陸軍の視察は何度も行ったが、初めて見るぞ。
機関銃? ディーゼル潜水艦? グライダー? 電磁波? ?
これは、まずい。非常にまずいぞ。
本国に連絡せねば。
■江戸城
「皆様方、アラスカの儀はお知らせいたしたとおり、上首尾に終わりました。されど開発に先立ち、一つ障り(問題)となる儀がございます」
純顕は、老中院と大老院が一堂に会した会議で発言した。老中院と大老院に加え、政事総裁職の春嶽や後見役の慶喜も出席している。
「それはいかなる事にございましょうや」
筆頭大老の安藤信正が純顕に尋ねると、一同の視線が純顕に集まった。
「詳しき旨はここな次郎より」
さっそく発言を促された次郎は、淡々と全員の顔を見回しながら、ゆっくりと話し始めた。
「イギリスとロシアの間で、アラスカの国境線がしかと定まっていないのでございます」
その言葉に、春嶽の眉間に深いシワが刻まれた。
「つまり、それは……」
「はい。イギリスとの何らかの談判なくしては、アラスカの開発は能わぬかと。よしんば開発が進んだとて、必ずや後から難癖をつけてくるでしょう」
御用部屋には重苦しい空気が漂っている。イギリスとの国交は、いまだに断絶したままだ。イギリスは国交を回復したいが、日本にとってはメリットがない。
そのため、断交の状態が続いているのだ。
「しかし、イギリスとの和議など……」
老中の一人が憤りを露わにした。イギリスに対する不信感は幕閣の間でも根強いのである。これは当然だ。
「然れども」
と慶喜が口を開いた。
「このままでは、せっかくの機会を逃してしまいますな。何にも増して二百六十万両も費やした挙句、何も能わぬでは話にならん。国を揺るがすほどの金を投じたのですぞ」
「中納言殿(慶喜)の仰せのとおりにござる」
安藤信正は深くうなずいた。彼の表情には、イギリスに対する嫌悪感と現実的な判断の間で揺れ動く複雑な感情が浮かんでいた。
「然れどイギリスとの和議となれば、いかなる条件を突きつけてくるやも知れませぬ」
板倉勝静が懸念を口にすると、稲葉正邦も同意してうなずく。
「仰せのとおりにございます。然りながらアラスカの国境問題に関しては、イギリスも譲歩せざるを得ないと存じます」
次郎は静かにうなずきながら、言葉を選んで答えた。
「何ゆえじゃ?」
春嶽の鋭い視線が次郎に向けられたが、次郎は老中たちの表情をさっと見回した後、話を続ける。
「イギリスはこれまで、くわえてただ今も、北米におけるロシアの名残の力(影響力)が大になるを警めて(警戒して)おります。我らがアラスカを買ったとなれば、イギリスが我らに関わりを持ってくるは必定にございます」
「うべな(なるほど)。して、無体と(無視)すればいかがなる?」
「イギリスは、今後も北米で力を大にせんとするでしょう」
次郎は静かに話を続けるが、他の面々は真剣に次郎の言葉に耳を傾けていた。
彼らの気持ちは次郎にもわかる。
『またイギリスか』だ。
「領土を広げるよう動くは必定。アラスカの国境が定まらぬまま我らが開発を始めれば、イギリスは必ずやあらがってまいりましょう。このままでは、いずれ大きな諍いになる恐れもございます」
重苦しい沈黙が漂う。
イギリスとの戦いは記憶に新しい。勝利を収めたとはいえ、再び衝突はしたくないのだ。しかし、アラスカの開発は進めなければならない。
「アメリカは?」
稲葉正邦が静かに口を開いた。何か解決の糸口を探している様子にも思える。
「はい」
次郎は一度深く息を吐き、正座し直した。着物のシワを整えながら、慎重に言葉を選ぶ。
「アメリカも北米での権益を大とするよう狙っておりますが、すでにアラスカはわが国の領土」
ここでいったん区切り、続ける。
「アメリカとの間にはブリティッシュコロンビア(イギリス)があるため、直に名残(影響)はないと存じます」
アメリカは関係がなく、イギリスとの直接交渉が必要である現実は変わらない。
「然らば、イギリスとの和議を結ばねばならぬのか」
安藤信正は煙管を手にしたまま深いため息をついた。
「然に候(そうです)。イギリスも機に乗じ、法外な求めをしてくる恐れもございます」
「例えば?」
春嶽が割って入ると、次郎は即座に答える。
「イギリスは、列強の中でも誇り高い国柄にございます。前回の敗戦で失った面子を取り戻そうとするでしょう。国境画定を口実に、国交回復をはじめとするさまざまな条件を求めてくるかと存じます」
春嶽は眉をひそめ、腕を組んだ。
「では、いかがいたす?」
次郎は静かに答える。
「まずは、確たる情報を集めねばなりませぬ。ロシアに確かめ、ただ今の国境はいずこか、いかなる点でイギリスと争っていたかをつかむのです。然すればイギリスとの談判も、障りなく(問題なく)進められましょう」
慶喜や春嶽はもちろん、全員が次郎を見て押し黙った。純顕は最初から黙って話を聞いており、今もまた目を閉じて何も言葉を発しない。
事前にこの会議の成り行きを2人で話し合っていたのだ。
「では次郎よ、斯様に言いたくはないが、お主が発案し、国家として認めて行ったのだ。蓋を開けてみれば、遅々として進まぬでは示しがつかぬぞ。見事にイギリスを説き伏せてまいれ」
「はは」
現在、イギリスとの国交は断絶しており、十数年前の薪水給与令の状態に逆戻りしている。あくまで人道的な措置のみが行われており、それ以上の進展はない。
和親条約の状態に戻すのか、それとも通商条約なのか。
しかし許可する場合でも、何らかの条件を付けて他国と区別しなければ、示しがつかない。
さて――。
次回予告 第378話 『ロシアとアラスカ』

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