慶長三年四月九日(西暦1598年5月14日)
「急報! 急報! 登州沖に大船団が出現しました! 女真の水軍と思われます!」
副官からの報告を受け、李化龍は全軍に戦闘態勢を整えるよう指示した。
「おいでなさったな。女真のヤツらめ」
李化龍は城壁に登り、海を見渡した。水平線上には黒い影がいくつも浮かんでいる。女真の軍船だ。数は百隻を下らない。
「総兵大人、敵の上陸地点はどこでしょうか?」
「ふむ……」
李化龍は地形を頭に描いた。
登州は半島の付け根に位置する。西側には萊州湾が広がり、東側には黄海が広がっている。もし敵が上陸を試みるとすれば、どこになるか。
「萊州湾だ。波が穏やかで、浅瀬も多い。大船が着けられる港もある」
「では、萊州湾岸に兵を」
「待て」
李化龍は部下の言葉を遮った。
「それは罠だ。奴らが堂々と艦隊を見せつけてくるとは思えん。きっと別働隊がいる」
その言葉通り、程なくして別の報告が入った。
「総兵大人! 黄海側でも敵影が確認されました! 小型の船で接近を試みているようです!」
「やはりな」
李化龍は冷静に状況を分析した。萊州湾に主力艦隊を見せつけ、明軍の注意をそちらに向けさせている間に、黄海側から奇襲をかける作戦である。
「全軍に伝えよ。黄海側の守りを固めつつ、萊州湾の監視も続けよ。敵の真の狙いが判明するまでは……」
李化龍は満州国の襲来に備えていた。
楊応龍の乱の鎮圧後、山東方面の防衛を提言していたのだ。しかし、肥前国との賠償問題や軍備制限の影響もあり、十分な防衛体制を構築できていない。
海賊対策は肥前国の艦隊が幸運にも担っており、特に問題はなかった。
限りある予算をどこに投入するかといえば、陸上である。
李化龍も海軍の運用に関しては専門外であった。
■金州衛 遼東水師営
「ハーン、今ごろは登州の連中は慌てふためいているでしょうな」
「そうだな。しかしわが軍は陸上戦においては強いが、船の扱いは不得手だ。ほとんどは蓋州衛と金州衛の水軍を集めて船を作り、兵を送ったに過ぎん」
ヌルハチは考えている。一抹の不安を抱えているのだ。
「明は肥前国との戦いで兵を失い、水軍も失ったと聞いておる。普通ならば兵も水軍も再建するが、純正はそれを許さなかった。いや、講和の条件として明が申し出たのだそうだ」
「つまり?」
「明が往時ほどの力を持っていなくとも、水軍を再建して海戦を挑んできたならば、勝ち筋は五分。我らとしては秘密裏に上陸し、陸で勝負をかけたいのよ」
副官は納得したが、すぐに質問で返した。
「しかし、あれほどの大軍が密かに上陸するのは難しいのではないでしょうか」
「うむ、ゆえに策を授けたのだがな……」
■紫禁城
「陛下、申し訳ありません。純正を説得できず、条約を結ぶには相応の利が必要だと」
顧憲成は大和殿の朝臣が集まる朝議において、苦渋の報告をした。
朝議の場には重苦しい空気が漂っている。顧憲成の言葉を聞いた大臣たちは、互いに顔を見合わせるだけだった。
「純正め……」
万暦帝は玉座に座ったまま、目を閉じて深いため息をついた。
「ならば、我が国はどうするべきか」
「陛下、申し上げにくいのですが」
「なんじゃ、礼部尚書よ」
言いにくくても言わなければならない。
「純正は……肥前国はそもそも、我が国と条約を結ぶ気はないと思われます」
顧憲成は静かに、しかし明確にそう言った。
沈黙が朝議の場を支配している。
大臣たちは言葉を失い、互いに視線を交わした。その表情には、『自分はわからないが、お前はどう思う?』という不安が色濃く表れている。
「どういうことだ礼部尚書。詳しく説明せよ」
万暦帝は眉間にシワを寄せ、厳しい口調で言った。
明らかに不機嫌である。
「はっ。肥前国は我が国をかつての大国とは見なしておらず、むしろ衰退した国と考えているのでしょう。共通の敵もおらず利益もないため、対等な条約を結ぶ意志がないのだと……」
顧憲成は覚悟を決めて深呼吸をし、ゆっくりとこれまでの経緯を語り始めた。
純正との会談の様子、彼の態度、そして言葉の端々から感じられた肥前国の真意を、一つ一つ丁寧に説明していく。
「……つまり純正は、我々を弱者と見て盟を結ぶに値しないと考えていると?」
万暦帝は静かに言ったが、声には怒りが込められていた。
かつて中華の覇者として君臨していた明が、このような屈辱的な扱いを受けるとは、考えもしなかっただろう。
「そのような状況でございますので……」
顧憲成は頭を下げた。
朝議の場は再び沈黙に包まれた。大臣たちはこの厳しい現実をどう受け止めればよいのか分からず、ただ俯くばかりだった。
「いかに純正に取り入ろうとも、相手にその気がない以上、徒労に終わります。ならば、相手を変えるほかありません」
「相手? 相手とは誰じゃ?」
万座がざわついた。
この状況において、同盟の可能性があるのは一国のみである。
寧夏だ。
■寧夏
「陛下、密偵からの知らせが参りました」
「なに? どんな知らせじゃ」
哱承恩は即位式を終え、今後の寧夏国を導くために、国王として難しい舵取りをしなければならない状況にあった。
「はい、遼東の金州衛と蓋州衛において、女真の水軍の動きが激しくなっているようです」
臣下は報告を続けた。
この知らせは、寧夏国にとって決して良くはない。
明が弱体化し、寧夏国が独立し、女真が台頭してきた。
今の状態は寧夏にとって最良ではあるが、未来永劫続くわけではない。
いずれ明は国力を回復し、女真は攻勢を強めて明に攻め込むだろう。明が強くなっても、女真が強くなっても、寧夏にとっての状況は悪化するのだ。
もし女真族が明を征服すれば、次の標的は寧夏になる可能性が高い。それはまるで、毒蛇が獲物を狙うかのように確実に寧夏に迫る危機であった。
「……ヌルハチは明を攻めるつもりか。ならば、このまま静観するわけにもいくまい」
女真と結び明を攻めるか?
明と結んで女真を攻めるか?
満州国とは哱拝の代に不可侵条約を結び、明は寧夏の独立を認めたが、国境を定める条約のみが存在していたのだ。
究極の選択である。
「陛下」
「なんだ?」
父の代から仕える側近の土文秀が、哱承恩に対して発言した。
「今、組むべきは女真にございます」
次回予告 第849話 『山東戦線と技術革新』

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