慶長三年四月十日(西暦1598年5月15日)
「総兵大人! 敵艦隊が撤退しています!」
「何?」
登州城の城壁の上で、李化龍は遠くに見える船影をじっとにらみつけた。しかし明らかに不自然だ。
これだけの大船団をそろえておきながら、一度も攻撃を仕掛けずに引き返すとは考えにくい。
昨日の艦隊発見以来、全く近づこうとしないのだ。
近づいては離れ、離れては近づいている。
「黄海側からの知らせはどうだ?」
「まだ届いていませんが、敵の動きに変化があれば知らせが届くはずです」
威海衛と登州城は馬で三日(時速6km×8時間×3日=約150km)の距離にある。
狼煙台は整備されていたが、ごく単純な情報しか送信できなかった。
そのため李化龍は、縮小されていた駅逓制度を限定的ではあるが復活させていたのだ。威海衛から北京まで、六日で報告できる。
登州までなら一日だ。
もちろん、女真の襲撃の報は昨日北京に発信している。しかし緊急通信ではなかったために、顧憲成の報告を先行して駅逓で使ってはいない。
その段階ではまだヌルハチの明国侵攻は事実ではなかったのだ。
李化龍は腕を組み、考え込む。
ヌルハチは戦いを避けたのか、それとも別の目的があるのか。
戦いを避けたい? 馬鹿な。ではなぜ攻め入ってくるのだ……。
威海衛は、遼東半島を挟んで渤海湾と黄海を結ぶ海域の防衛を担っている。
倭寇の侵入を防ぐために設営されたが、残念ながら老朽化が進んでおり、十分な整備が行われていない。
しかし、それでも外敵を防ぐための要塞である。
威海衛を避けて別の場所に上陸する可能性も考えられた。
「もし威海衛を避けて上陸するのであれば……」
威海衛の西、芝罘島周辺には小さな漁村が点在している。防備は手薄であり、そこから上陸すれば内陸部への進軍は容易だ。
「総兵大人!」
副官が息を切らして駆け寄ってきた。明らかに焦っている。
「威海衛から急報! 敵の船団が芝罘島に向かっています!」
「やはり……」
李化龍は眉をひそめた。予想どおりの展開にかえって不安を感じたのだ。
「状況を報せよ」
「蓬莱湾には向かわず、沙門島(長山列島)の沖合いに停泊したままです」
李化龍は壁掛けの地図をじっと見つめた。
芝罘島から女真軍が内陸に入れば、明軍は登州と威海衛の間を突かれて両城が孤立する。
さらに女真軍は、北上して莱州と掖県の背後を突く作戦もとれるのだ。
「全軍に伝えよ。威海衛と登州を結ぶ線を死守するのだ」
厳密に言えば芝罘島からの上陸阻止である。
李化龍は最悪の事態も考慮に入れていた。
それは、この防衛ラインが突破され、女真軍に北京への進軍を許すことを意味する。おそらく抗戦したとしても、勢いに乗る女真軍に対抗するのは難しい。
眼前の女真軍は三万。
対してわが軍は二万。
兵力では劣っていても、武装に関しては我らが優れている。三眼銃と仏狼機砲などの火器を有効に用いれば、優位に戦闘を進められるはずだ。
それよりも、万が一突破された場合には速やかに撤退し、南下しなければならない。
北京から南下し、保定府・真定府・順徳府・大名府まで退却する。
青洲および霊山衛まで防衛線を構築すれば、防戦が可能だ。
そうしなければ、北京は孤立する。
「敵は芝罘島から進撃し、わが防衛線を切り裂こうとしている。しかし奴らの補給路は海上からのみだ。これを断てば長くは持たん」
副官たちはうなずきながら指示を待つ。
李化龍は冷静さを保ちながらも、明軍の厳しい現状を理解していた。兵力は分散しており、補給物資も乏しい。
短期決戦が望ましいが、補給が厳しいのは海路の女真も同様である。
「黄海側の守備隊には増援を送れ。ただし、主力部隊は登州と威海衛の防衛に集中させる」
李化龍は地図の芝罘島周辺に目を向けた。
「沙門島(長山列島)と芝罘島付近に偵察隊を送り込め。敵の正確な規模と動きをつかむ必要がある」
「承知いたしました!」
副官が命令を伝達するために向かう中、李化龍はさらに続けた。
「そしてもう一つ。渤海湾に停泊している敵艦隊にも注意せよ。あれは単なる陽動ではない可能性がある」
その夜、芝罘島周辺では女真軍が上陸作戦を開始していた。
小型船団に分乗した兵士たちは、漁村近くの浅瀬に足場を築き始めていたのだ。その動きを監視していた明軍の偵察隊は、急いで報告を送る。
「総兵大人! 敵は芝罘島に上陸しつつあります! 数百名規模ですが、小舟で次々と兵士を運び込んでいます!」
報告を受けた李化龍は即座に指示を出した。
「芝罘島への増援部隊を派遣する。ただし、大規模な部隊移動は避けよ。敵がどこまで本気であるかを見極める必要がある」
■金州衛 遼東水師営
「明軍の動きはどうだ?」
「まだ大規模な反応は見られませんが、偵察隊がこちらの動きを探っているようです」
ヌルハチ配下の将軍は冷笑した。
「それでいい。我々が芝罘島に集中していると思わせておけ。本命は別だ」
沖合いに停泊している主力艦隊では、沙門島(長山列島)に補給拠点を構築して別働隊の準備を進めている。
この部隊は萊州湾側への奇襲上陸を狙っており、明軍の防御線全体に混乱をもたらす計画を立てていた。
「さて、拠点が完成すれば何も問題はない。明は金がないのか、砲台や城壁も、放置したままだからな」
ヌルハチの笑い声に同席していた将官たちも笑い出した。
翌朝、登州城に新たな報告が届く。
「総兵大人! 敵が芝罘島へ上陸し補給拠点を築いている模様です」
「くそっ!」
■肥前国 科学技術省 電力電気開発部 発電機開発課
「いかがだ? 開発はつつがなく進んでいるか?」
炭素灯研究開発促進課の課長・半藤大輝が、煤けた鉄の匂いが漂う実験室に足を踏み入れた。壁際には鉄輪や導線が積まれ、机の上には焦げた整流子(と名付けた)の試作品が転がっている。
「半藤様、はい、進んでおりますが、いくつか問題がございます」
「何だ?」
若手技師の杉浦が顔を上げた。
彼は机の上に広げた設計図を指差しながら話を続ける。
「この発電機にございますが、回転する部分から火花が出続けてしまい、いかにしても動きを安んずること|能《あた》いませぬ」
半藤は眉をひそめた。
「火花? それは危ういではないか。何ゆえかは分かっているのか?」
「はい。接触部分で電流が途切れるゆえ故にございます。そのため火花が出てしまい、部品が焦げ付いてしまうのです」
杉浦は焦げた金属片を手に取りながら説明した。
「うべな(なるほどな)……ただ、このままでは使い物にならぬな」
「面目ございませぬ」
その時、奥から金づちで叩く音とともに、技師の声が響いた。
「杉浦主任! 接点の形を少し斜めに削りましたら、火花が減り申した!」
半藤はその言葉に反応し、『ほう、それでいかほど変わった?』と問いかける。
「三割ほど減りました。されど、いまだ脈動が残ります」
技師は鉄輪を持ち上げながら答えた。
「三割減ったならば、それをさらに進める術を考えねばなるまい。頼んだぞ(炭素灯の未来がかかっているのだからな……)」
杉浦と他の技師たちはその案を聞き、大急ぎで新しい試作機の準備を始めた。
数日後――。
「では導線を螺旋状に巻こう。接する点を十二箇所に増やし、磁石も四極配置にすれば――」
「これで磁界(と命名した)が均一化し、脈動も抑えられるので?」
さらに数日後――。
ドーナツ形の鉄輪が滑らかに回転している。12か所の接点が炭素ブラシに触れ、わずかな火花しか散らな状態で安定していた。
「直流(と命名した)出力、炭素灯点灯可能基準(それぞれ熟語命名)に到達!」
実験室内には歓声と拍手が響く。
「まだまだ改める余地はあるな……」
杉浦と技師たちの挑戦は続く。
次回予告 第850話 『登州決戦』

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