第849話 『山東戦線と技術革新』

 慶長三年四月十日(西暦1598年5月15日)

「総兵大人! 敵艦隊が撤退しています!」

「何?」

 登州城の城壁の上で、李化龍りかりゅうは遠くに見える船影をじっとにらみつけた。しかし明らかに不自然だ。

 これだけの大船団をそろえておきながら、一度も攻撃を仕掛けずに引き返すとは考えにくい。

 昨日の艦隊発見以来、全く近づこうとしないのだ。

 近づいては離れ、離れては近づいている。

「黄海側からの知らせはどうだ?」

「まだ届いていませんが、敵の動きに変化があれば知らせが届くはずです」

 威海衛と登州城は馬で三日(時速6km×8時間×3日=約150km)の距離にある。

 狼煙のろし台は整備されていたが、ごく単純な情報しか送信できなかった。

 そのため李化龍は、縮小されていた駅逓えきてい制度を限定的ではあるが復活させていたのだ。威海衛から北京まで、六日で報告できる。

 登州までなら一日だ。

 もちろん、女真の襲撃の報は昨日北京に発信している。しかし緊急通信ではなかったために、顧憲成の報告を先行して駅逓で使ってはいない。

 その段階ではまだヌルハチの明国侵攻は事実ではなかったのだ。

 李化龍は腕を組み、考え込む。

 ヌルハチは戦いを避けたのか、それとも別の目的があるのか。

 戦いを避けたい? 馬鹿な。ではなぜ攻め入ってくるのだ……。

 威海衛は、遼東半島を挟んで渤海湾と黄海を結ぶ海域の防衛を担っている。

 倭寇わこうの侵入を防ぐために設営されたが、残念ながら老朽化が進んでおり、十分な整備が行われていない。

 しかし、それでも外敵を防ぐための要塞である。

 威海衛を避けて別の場所に上陸する可能性も考えられた。

「もし威海衛を避けて上陸するのであれば……」

 威海衛の西、芝罘しふう島周辺には小さな漁村が点在している。防備は手薄であり、そこから上陸すれば内陸部への進軍は容易だ。

「総兵大人!」

 副官が息を切らして駆け寄ってきた。明らかに焦っている。

「威海衛から急報! 敵の船団が芝罘島に向かっています!」

「やはり……」

 李化龍は眉をひそめた。予想どおりの展開にかえって不安を感じたのだ。

「状況を報せよ」

蓬莱ほうらい湾には向かわず、沙門しゃもん島(長山列島)の沖合いに停泊したままです」

 李化龍は壁掛けの地図をじっと見つめた。

 芝罘島から女真軍が内陸に入れば、明軍は登州と威海衛の間を突かれて両城が孤立する。

 さらに女真軍は、北上してらい州とえき県の背後を突く作戦もとれるのだ。

「全軍に伝えよ。威海衛と登州を結ぶ線を死守するのだ」

 厳密に言えば芝罘島からの上陸阻止である。

 李化龍は最悪の事態も考慮に入れていた。

 それは、この防衛ラインが突破され、女真軍に北京への進軍を許すことを意味する。おそらく抗戦したとしても、勢いに乗る女真軍に対抗するのは難しい。




 眼前の女真軍は三万。

 対してわが軍は二万。

 兵力では劣っていても、武装に関しては我らが優れている。三眼銃と仏狼機砲フランキほうなどの火器を有効に用いれば、優位に戦闘を進められるはずだ。

 それよりも、万が一突破された場合には速やかに撤退し、南下しなければならない。

 北京から南下し、保定府・真定府・順徳府・大名府まで退却する。

 青洲および霊山衛まで防衛線を構築すれば、防戦が可能だ。

 そうしなければ、北京は孤立する。




「敵は芝罘しふう島から進撃し、わが防衛線を切り裂こうとしている。しかし奴らの補給路は海上からのみだ。これを断てば長くは持たん」

 副官たちはうなずきながら指示を待つ。

 李化龍は冷静さを保ちながらも、明軍の厳しい現状を理解していた。兵力は分散しており、補給物資も乏しい。

 短期決戦が望ましいが、補給が厳しいのは海路の女真も同様である。

「黄海側の守備隊には増援を送れ。ただし、主力部隊は登州と威海衛の防衛に集中させる」

 李化龍は地図の芝罘島周辺に目を向けた。

「沙門島(長山列島)と芝罘島付近に偵察隊を送り込め。敵の正確な規模と動きをつかむ必要がある」

「承知いたしました!」

 副官が命令を伝達するために向かう中、李化龍はさらに続けた。

「そしてもう一つ。渤海湾に停泊している敵艦隊にも注意せよ。あれは単なる陽動ではない可能性がある」

 その夜、芝罘島周辺では女真軍が上陸作戦を開始していた。

 小型船団に分乗した兵士たちは、漁村近くの浅瀬に足場を築き始めていたのだ。その動きを監視していた明軍の偵察隊は、急いで報告を送る。

「総兵大人! 敵は芝罘島に上陸しつつあります! 数百名規模ですが、小舟で次々と兵士を運び込んでいます!」

 報告を受けた李化龍は即座に指示を出した。

「芝罘島への増援部隊を派遣する。ただし、大規模な部隊移動は避けよ。敵がどこまで本気であるかを見極める必要がある」




 ■金州衛 遼東水師営

「明軍の動きはどうだ?」

「まだ大規模な反応は見られませんが、偵察隊がこちらの動きを探っているようです」

 ヌルハチ配下の将軍は冷笑した。

「それでいい。我々が芝罘島に集中していると思わせておけ。本命は別だ」

 沖合いに停泊している主力艦隊では、沙門島(長山列島)に補給拠点を構築して別働隊の準備を進めている。

 この部隊は萊州湾側への奇襲上陸を狙っており、明軍の防御線全体に混乱をもたらす計画を立てていた。

「さて、拠点が完成すれば何も問題はない。明は金がないのか、砲台や城壁も、放置したままだからな」

 ヌルハチの笑い声に同席していた将官たちも笑い出した。




 翌朝、登州城に新たな報告が届く。

「総兵大人! 敵が芝罘島へ上陸し補給拠点を築いている模様です」

「くそっ!」




 ■肥前国 科学技術省 電力電気開発部 発電機開発課

「いかがだ? 開発はつつがなく進んでいるか?」

 炭素灯研究開発促進課の課長・半藤大輝が、煤けた鉄の匂いが漂う実験室に足を踏み入れた。壁際には鉄輪や導線が積まれ、机の上には焦げた整流子(と名付けた)の試作品が転がっている。

「半藤様、はい、進んでおりますが、いくつか問題がございます」

「何だ?」

 若手技師の杉浦が顔を上げた。

 彼は机の上に広げた設計図を指差しながら話を続ける。

「この発電機にございますが、回転する部分から火花が出続けてしまい、いかにしても動きを安んずること|能《あた》いませぬ」

 半藤は眉をひそめた。

「火花? それは危ういではないか。何ゆえかは分かっているのか?」

「はい。接触部分で電流が途切れるゆえ故にございます。そのため火花が出てしまい、部品が焦げ付いてしまうのです」

 杉浦は焦げた金属片を手に取りながら説明した。

「うべな(なるほどな)……ただ、このままでは使い物にならぬな」

「面目ございませぬ」

 その時、奥から金づちで叩く音とともに、技師の声が響いた。

「杉浦主任! 接点の形を少し斜めに削りましたら、火花が減り申した!」

 半藤はその言葉に反応し、『ほう、それでいかほど変わった?』と問いかける。

「三割ほど減りました。されど、いまだ脈動が残ります」

 技師は鉄輪を持ち上げながら答えた。

「三割減ったならば、それをさらに進める術を考えねばなるまい。頼んだぞ(炭素灯の未来がかかっているのだからな……)」

 杉浦と他の技師たちはその案を聞き、大急ぎで新しい試作機の準備を始めた。




 数日後――。

「では導線を螺旋状に巻こう。接する点を十二箇所に増やし、磁石も四極配置にすれば――」

「これで磁界(と命名した)が均一化し、脈動も抑えられるので?」




 さらに数日後――。

 ドーナツ形の鉄輪が滑らかに回転している。12か所の接点が炭素ブラシに触れ、わずかな火花しか散らな状態で安定していた。

「直流(と命名した)出力、炭素灯点灯可能基準(それぞれ熟語命名)に到達!」

 実験室内には歓声と拍手が響く。

「まだまだ改める余地はあるな……」

 杉浦と技師たちの挑戦は続く。




 次回予告 第850話 『登州決戦』

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