第10話 『兄貴へ直談判②本格始動へ』

 1590年4月5日 オランダ デン・ハーグ <フレドリック・ヘンドリック>

「砂糖と塩、それに石けんとロウソクか」

 兄貴は、ふむ、とうなずきながら、羊皮紙に書かれた計算式に目を通した。

 寒い。

 16世紀のオランダは寒いな。オランダの気候には慣れているつもりだったけど。

「兄上、この4つの商品は確実に利益が出ます。特に砂糖は……」

 オレは前回の提案までは幼児言葉、いや、6歳児の言葉を交ぜて話していた。

 でもいい加減面倒くさくなってきたから、もう普通に話そうと決めたんだよ。

 そういえばポルトガル大使には大人のように話していたな。

 まあ、とにかくそういうわけだ。

「待て」

 え? 何かまずかったか?

「お前の計算は面白い。しかし、ポルトガルとの関係を考慮しなければならないぞ。砂糖市場に参入すれば、確実に反発がある」

 オレは目を閉じて黙って首を横に振った。

「兄上、反発とは何ですか? 別にポルトガル産の砂糖に関税をかけるわけではありません。自由競争ではないでしょうか?」

「ほう……」

 考えている。

 考えているぞ……。

「自由競争か……。確かにそのとおりだ。しかしな、ポルトガルはブラジルにおける砂糖生産に莫大ばくだいな投資をしている。市場を脅かせば、必ず反発を招く」

 いや、だからその反発って何だよ。

 ただでさえ独占して莫大な利益をあげているんだ。確かに安くて(いくらにするかわからんが)大量に砂糖が出回れば困るよね。でも、そりゃ仕方ないんじゃない?

 オランダの学者が発見した成分が砂糖と同じで、大規模に栽培したらこうなった。

 結果論だろ?

 何でポルトガルから攻撃されなきゃならないんだ?

「兄上、ですから反発とは何ですか? ポルトガルの独占市場を奪うって、国家が国家に対して行う行為ではないでしょう?」

 別にブラジルの植民地を奪ったわけでもなく、大西洋の航路を奪ったわけでもない。

「お前はまるで商人のようだな。いや、商人よりも政治家だ。政治家の視点を持っている」

 何だって?

「国家が国家に対する行為ではない、と言ったな。そのとおりだが、ポルトガルの砂糖貿易はセバスティアン1世の政権の根幹を成すのだ」

 ああ、そうか。オレは思わず膝を打った。

「確かに……。でも兄上、オランダの商人が新しい商売を始められないなんて、おかしくありませんか?」

「もちろんおかしい。だがな、ポルトガルには強大な同盟国、肥前国が存在する。もしポルトガルがわが国に攻め入った場合、勝てるか?」

 え?

 バカな。

 あり得ない。

「兄上、何をおっしゃっているのですか。今の状況で、ポルトガルが攻め入るなんてあり得ませんよ」

 オレは笑いながら言ったが、兄貴は笑っていない。

「お前は、何と言うか着眼点は鋭いが、足りない点もある。特に外交の面で考えればな」

 え?

 外交?

 オレの専門分野なんですけど。

「どういう意味ですか?」

「世の中には、あり得ないことがしばしば起こる。スペインはアルマダでイギリスに敗れ、フィリピンで肥前国に敗れた。それに、親戚であるポルトガルとスペインが決別するなんて、誰が想像した?」

 ん……。

 それは、確かに。

「砂糖も同じだ。ポルトガルだけではない。地中海の諸都市からも輸入されている。利権が絡んだ戦争は数え切れんぞ」




 ・地中海とレバントの貿易を巡るヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

 ・百年戦争(フランドルの毛織物利権もその一因)

 ・北海とバルト海の交易権を巡るハンザ同盟と北欧諸国の戦争




 兄貴はいくつかの例をあげて説明した。

 言われてみれば東シナ海の○国の動きもそうだな。ちょっと前ならルール工業地帯やアルザス・ロレーヌ地方も該当する。

 あいた~。

 オレとしたことが。

 そうだよ。そうなんだよな。

 外交官としての経験があるのに、こんな基本的なことを忘れていたなんて。

 肥前国にしたって技術革新だけじゃない。国家の利権を守るために海軍力を強化して、スペインと戦っているんだ。

「兄上、申し訳ありません。経済面だけを考えて、外交的な配慮を忘れてしまいました」

「いや、お前の提案は間違っていない。ただ、もう少し慎重に進めた方が良い」

 兄貴は窓から差し込む光を背に、ゆっくりとオレの方を向いた。

「例えば、最初は小規模で始め、ポルトガルの反応を見る。徐々に規模を拡大していけば、相手側にも対応するための時間的余裕ができるはずだ」

「なるほど……」

 確かにそうだ。

 いきなり大規模な生産を始めて市場を混乱させるよりも、段階的に進めていく方が賢明だ。

 最初はポルトガル産よりも少し安めで流通させればいい。

「それに、お前の計算では初期投資がかなり必要だ。小規模なら費用も少額で済む」

 最初にどの程度市場に投入するか。

 そこから逆算して、必要な生産量を考えればいい。




「わかりました、兄上。塩はどうしますか?」

「塩か……」

 机の上にある、オレの計算式が書かれた提案書に兄貴は目を落とした。

「これは面白いな。確かにリューネブルク産の塩は高価だが……ギルドの反発が予想される。それに、ポルトガルからも精製塩が入ってきているからな」

 やっぱりね。

 そうくると思ったよ。

「はい。でも兄上、関税で調整しているのでしょう? ポルトガル産とリューネブルク産、国産の塩の質が同じなら、同じ価格で販売しても競争にはなりません。コストが低いから十分な利益が得られますからね。それに、ギルドと提携する予定です」

「提携とは?」

「はい。生産は全面的にギルドに任せます。その代わりに、精製技術は極秘中の極秘として厳重に管理します。こうすれば、反対されるどころか、むしろ歓迎されるでしょ?」

「なるほど……。ギルドを敵に回さず、むしろ味方につける。砂糖以上に実現性が高いかもしれないな」

「塩は必需品です。ぜいたく品ではありません」

 思ったとおりポルトガル産の精製塩には関税がかかっている。それでも衝突が起きていないのは政治的な駆け引きのおかげだそうだ。

 オレの予想どおりだな。

 この時代、塩は食品の保存に欠かせない。需要は確実にある。

「よし、塩は何の問題もないな。さっそく始めよう。しかし、石けんとロウソクは……」

「石けんの需要は確かに限られているかもしれませんが、医学部での研究を進めれば……」

「研究か。大学の医学部で研究すればいいが、それにしても研究費用はかかるな」

 金だよね。

 そりゃそうだよ。

 何にでも金はかかるよ。

 だから前回の提案より金がかかんなくて、かつもうかる品を探してきたんじゃないか。

 ただまあ、うーん、医学部は確かに金かかりそうではあるけど。

 え?

 大学の医学部で研究すればいい?

「兄上、ちょっと質問なんですが……。ライデン大学には、もしかして医学部があるのでしょうか?」

 は?

 兄貴の顔はまさにそう言っている。

「何を言っているんだ。あるに決まっている。1575年に父が設立したライデン大学には、他にも多くの学部がある。ゲラルドゥス・ボンティウス教授は医学部の初代教授だった」

 まじか。

 オレはてっきり、クルシウスのじいさんは植物学をやってるもんだとばかり思ってた。

 大学の学部構成なんて、まったく気にしてなかったぜ。

「ちょっと待ってください」

 オレは額を押さえながら言った。

「医学部があるんなら、研究してもらえばいいじゃないですか。石けんと病気の関係について」

「研究費用の話をしているんだが」

「いえ、そうではありません。医学部で研究するなら、新しい大学を設立しなくてもライデン大学と提携すれば……」

「ああ、なるほど」

 あきれた表情を浮かべていた兄貴だが、納得した様子でうなずいた。

「確かにその方が現実的だな。ライデン大学なら既に実績もある。新しい大学を設立するよりも、はるかに金はかからんな」

 そうそう、それそれ。

「ところで、お前、何でそんなに肥前国を気にしているんだ?」

 え?

 唐突に、何?

 オレは一瞬戸惑った。

 肥前国に関心を持つ理由は、正体不明の小佐々純正が統治する国の驚異的な技術力だよ。

 でも、それを素直に話すわけにはいかない。

「いえ、別に気にしているわけではありません。ただ、あれだけの技術力を持つ国とポルトガルが同盟を結んでいるのです。わが国も無関心ではいられないかと」

 兄貴の眉がピクリと動いた。

 オレの言葉に何か引っかかったのかもしれない。

「技術力、か……確かにそうだな。オレも伝聞でしか聞いてはいないが、驚くべき技術らしい。しかし、お前はまるでその技術を追い求めているかのようだな」

 兄貴、ビンゴ!




 次回予告 第11話 『本格始動とオットー・ヘウルニウス』

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