慶長三年七月二十一日(西暦1598年8月22日)
万暦帝は決断を下した。
開平府(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)から順天府(北京)までは、約441km。
宣府(河北省張家口市)からは約194km、大同府(山西省大同市)からは約346kmである。
1か月もたたないうちに紫禁城は包囲され、明朝の命運は尽きようとしていたのだ。
徹底抗戦もできたかもしれない。
しかし、包囲されてしまえば状況は厳しくなってしまう。
状況が悪化してから講和を試みても、条件はますます厳しくなるだけだ。
■真定府(河北省石家庄市)
「陛下の御聖断のおかげで、われらはこうして生きながらえております」
「……世辞は結構だ。顧憲成、李如松、王国光、石星よ。いったいどこまで南に進めば良いのか。余はどこを都に定め、どこで女真と寧夏を防げば良いのだ。登州の李化龍は何と言っておる?」
重臣たちの前の万暦帝は焦燥しきっていたが、それを見せまいと努めている。
もし張居正が生きていたら、こんな事態にはならなかったかもしれない。
悔やんでも悔やみきれない思いを胸に抱えていたのだ。
「陛下、李化龍将軍からの伝令によりますと、まずは大名府に防衛線を設けるべきとの進言にございます」
李如松が広げた地図を指差しながら答えた。指先は真定府の南に位置する場所を指し示している。
「しかしあまりにも南に進みすぎると、民の心が離れてしまいますぞ」
王国光は眉をひそめた。確かにその通りで、南遷は明の威信を大きく損なうものであり、避けられない事実である。
しかし、民心の有無を論じるのは、いまさらであった。
明に往時の求心力はない。
必死に回復に努めてきたが、永楽帝の治世はおろか、張居正の在任中にも遠く及ばないのだ。
「確かにそうだが、しかしもう一つ。そもそも大名府に遷都したとして、防衛線はどこに敷くつもりなのか? 首都が防衛の最前線になるなど前代未聞であるぞ。天朝も初めは応天府(南京)を都としており、後に順天府(北京)に移ったのだ。それを考えるならばもっと南に遷都し、真定、順徳、大名、彰徳のいずれかの府を防衛線とするべきでは」
提案者は石星である。
「では、応天府まで南下するというのか?」
「いいえ」
石星の言葉に対し、万暦帝は苦々しい表情を浮かべたが、実際には石星が提案したのは応天府への遷都ではなかった。
「応天府は遠すぎますので、開封府を拠点にし、大名府に防衛線を設けるのが良いかと」
石星の発言の後、李如松が補足のために続ける。
「開封府を都とし、真定府から順に防衛線を築きます。山東では、李化龍将軍と密に連絡を取り合い、霊山衛から青洲、済南府を経て真定府と結べばよろしいかと。ここを防衛しつつ、第二から第四の防衛線(順徳、大名、彰徳)の防備を固めます」
万暦帝はアゴに手を当てながら、重臣たちの提案に耳を傾けていた。
次の都をどこにするかでもめているが、北京を去った時点で明の衰退は誰の目にも明らかなのだ。
ここで決断を先延ばしにすれば、軍事的な選択肢はますます少なくなる。
地政学的に考えれば、天津の割譲や北京周辺に寧夏の領土を認めた時点で、この結果は予測できたはずである。
「開封府か……」
万暦帝の声は重く、深いため息が漏れた。その表情には、祖先から受け継いだ都を捨ててしまった無念さが色濃く浮かんでいる。
「では、開封府までの道筋は?」
李如松は地図上で指をなぞりながら説明を続けた。
「まずは順徳府を経て大名府へ向かいます。その後、開封府へと進みながら各地の兵を集め、防衛線を強化しながら南下していくのが上策でしょう」
「さらに、各地の官僚や物資も集めねばなりません」
石星が補足すると、顧憲成は目を細めながら静かに進言した。
「陛下、これは後退ではございません。時を稼ぎ、力を蓄えるための布石にございます」
万暦帝の表情が少し和らいだ。確かにそのとおりだとも言える。今は一時的に退くとしても、再起に向けた準備なのだ。
「よかろう。ただちに開封府への遷都の準備を進めよ」
「ははっ」
文官の顧憲成、王国光、石星は遷都の準備を、武官の李如松は防衛線の構築に向けて李化龍との連絡を開始した。
■登州
「申し上げます! 中軍と後軍は禁軍と共に南進しており、現在は真定府にて態勢を整えております」
「そうか、間に合ったか。あとは李如松将軍がおるゆえ問題はなかろう」
ヌルハチの本隊が加わった満州国軍の総攻撃を何とかしのいでいた李化龍は、ホッと胸をなで下ろした。
「総兵大人、霊山衛への撤退経路についてですが」
副官が地図を広げる。
李化龍は目を細めて経路を確認した。登州から霊山衛までは、直線距離でもかなりの距離がある。
「ふむ、敵は北へ進軍するであろうから、追撃の心配はないであろうな。しかし、念のために芝罘島沿岸部隊との合流は避け、芝罘島部隊はそのまま霊山衛を目指す。我らは青州まで退いて、陣を組み直すぞ」
李化龍は指で経路を示しながら話を続けた。
「左軍の浙江都司に命じて軍を北上させよ。沿岸の備えはいらん。陝西を除く右軍は全軍を北上させ、真定・順徳・大名・彰徳の防衛をなせ。前軍も同様じゃ。陛下より防衛の権限を委譲されているため詔はいらん。ただし、その旨を陛下に奏上せよ」
「承知致しました」
副官が退室しようとしたその瞬間、遠くで雷鳴のような轟音が響き渡った。
「敵の追撃が迫ってきています――」
李化龍はサッと手を挙げ、言葉を遮った。
「撤退の合図を出せ。今すぐだ」
明軍の長い撤退が始まろうとしていた。
次回予告 第853話 『新都 開封』

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