第853話 『新都 開封』

 慶長三年七月二十一日(西暦1598年8月22日) 開封府

 黄河のほとりに広がる開封は、かつて北宋の『東京』として栄えた都だった。

 三重の城壁に囲まれた街並みは、長安のような碁盤目状ではなく、複雑に入り組んだ路地と水路が張り巡らされている。

 城門をくぐると、避難民と物資を運ぶ荷車が入り乱れていた。

 運河沿いには、江南からの米や塩を積んだ船が次々と到着し、水夫たちが荷揚げに追われている。

「ここが新しい都か……」

 万暦帝は仮宮殿の窓辺に立ち、眼下に広がる街並みを見下ろしていた。

 北京から百九十里(約763km)を走り抜けてきた疲れからか、万暦帝は30代半ばであるが、実際よりかなり老けて見える。

「陛下、李如松将軍からの報告でございます」

 顧憲成が部屋に入ってきた。手には一通の書状を握っている。

「なんだ?」

「はい、寧夏軍が南下を続けております。大同から五万を超える大軍が押し寄せ、すでに保定府を制圧したそうです」

「そうか……」

 万暦帝の顔は、まるで表情のない人形のようだ。

「寧夏め……これ以上何を望むのだ。余は哱拝ぼはいに独立を認め、あり得ぬほどの領土を割譲したのだぞ。にもかかわらず、まだ望むのか。我が軍の兵力はどれほどなのだ。南に遷都して防衛線を敷いたぞ。食い止めるだけの兵力はあるのか?」

「はい、正確な数はわかりかねますが、寧夏軍の総数はおおよそ五万五千。寧夏も総兵力をもって順天府を囲みましたから、太原府と平陽府にはそこまでの兵は配しておりません」

 顧憲成は万暦帝の焦燥しきった顔を見るにつれ、何とか和らげようと報告の表現方法や順序をあれこれ考えながら話している。

「つまり?」

「南下する軍は四万ほどかと。これならばわが軍の総力をもってすれば、防げます」

「そうか。しかし心もとないな。女真もいるのだぞ。どうするのだ?」

 兵力の差はいかんともしがたい。

 それに寧夏は別として、満州国軍は旧式とは言え肥前国の火器を装備しているのだ。

「登州防衛線は李化龍りかりゅう将軍が指揮をとっておりますが、女真軍は登州に上陸した際の船をそのままに、北上いたしました」

「ふむ」

「ゆえに、北上して河間府を落として順天府に向かいましたが、すでに寧夏軍が入城しておりました。どのような密約があったかはわかりませんが、その後河間府に留まっております。李化龍将軍によれば、登州を守らねばならず、兵を分散しなければならないと」

「つまり……兵力では劣勢ではあるが、北京から撤退した時より戦においては状況は好転しているのか?」

 万暦帝も厳しい状況のなか、何とか希望を持ちたいのだ。

 世の中に絶対はない。

 それでも、『必ずや』という将軍や重臣の一声は心強い。その言葉が欲しいのだ。

「はい。攻め落としたら放置はできません。民を安んじ、自分たちに反乱を起こさないように鎮撫ちんぶしなければならないのです。登州での戦いはわが軍の一方的な負けではございません。兵力と火力に勝る女真軍を押しとどめ、住民を逃し、目的をもって撤退したのです。そのおかげで……」

「うん?」

 顧憲成の顔に笑みが浮かんだのを万暦帝は見逃さない。

「何か良い事でもあるのか?」

「はい。今回の戦いは鴨緑江での肥前国との戦いとは違い、女真の侵略に対する、国と民を守るための戦いです」

「ふむ」

「陛下、今回の戦いは正義なのです。肥前国との戦いは我らが仕掛けた戦。今回は領土を守る戦いです。民も兵も、それを理解しております」

 顧憲成は続けた。

「戦いの前に民衆を逃したのが功を奏したのでしょう。よくやってくれた、助かったと、今度はオレたちも戦うと言って、すでに各地で義勇軍が集まり始めております。民は自分たちの土地を守るため、自ら武器を取ろうとしているのです」

「義勇軍だと?」

 万暦帝は初めて表情を和らげた。

「そうです。寧夏の哱拝は、われらの圧政に対して蜂起いたしました。しかし、その後われらは自らを省みて善政を施して、ようやく秩序が保たれてきたのです。肥前国に流れる民がいるのは仕方ありませんが、寧夏や女真は民にとっても明らかなる敵なのです」

「そ、そうか……数は、数はどれほどなのだ?」

 顧憲成は考え込んだが、誇張せず、うそ偽りなく報告する。

「はい、今のところは五千ほどかと」

「五千、か」

 喜びとも落胆ともいえない複雑な表情を見せる万暦帝。

「しかしその数は膨れており、一万を超すのもそう長くはかからないかと」

 万暦帝は初めて、わずかな希望を見出した。

 民衆の蜂起。

 まだ明への忠誠心が残っているのだろうか。

「よし、その民を支援せよ。武器の供与を。よいか、国を思う気持ちは同じだ。正規兵と区別なく扱うのだぞ」

「ははっ」




 ■肥前国 諫早

「趙志高首輔が高齢のため、次輔の私が参りました」

 一昔前の尊大さがみじんもみられない。

 内閣次輔の沈一貫しんいっかんの言葉である。

 そういう沈一貫もよわい六十を超え、渡海しての訪問は体力的にも厳しいはずである。

「顧憲成殿はいかがされた?」

「礼部尚書は内政をしておりますので、今回は私が陛下の名代として参りました」

「さようか。では、わが国との同盟に良い条件でもお持ちになったのか」

 沈一貫は落ち着いている。

 純正の相手を探るような目に対しても動じない。年の功といったところだろうか。

「いえ、違います。今年の四月に礼部尚書が話合いに伺いましたが、貴国は一顧だにされなかった。もちろん、利がなければ同盟など害にもなり得ますので、理解できます。ですから今回は、貴国の真意を確かめたく伺いました」

 顧憲成が肥前国に来たのは今から四ヶ月前である。

 ちなみに明朝では、元の郭守敬が作成した授時暦を大統暦に修正して用いていた。グレゴリオ暦に匹敵する正確さである。

「わが国の真意とは?」

「殿下も争いは望んでおらぬはず。わが国が衰退し、女真もしくは寧夏が代わって大陸を治める将来を、望んではいらっしゃらないでしょう?」

 純正の眉がピクリと動いた。

「殿下の望みは大陸に強大な国家が現れぬこと。明と寧夏と女真がほどよく成立してせめぎ合いをしている現状が、貴国にとってもっとも望ましいのではないでしょうか?」

「なかなか鋭い洞察だな」

 純正は静かにうなずいた。沈一貫の言葉は、肥前国の真意をよく理解していたのだ。

「それなら、なぜわが国に助力を求めに来られたのだ?」

 沈一貫は姿勢を正した。

「あのときは援助が必要だったのです。もちろん、それは今も変わりませんが、ない物ねだりをしても仕方がないでしょう。ですから、私が今日参上したのは、助力を求めるためではありません」

 そう言って現在の戦況を純正に語った。




 ・すでに女真族が登州沿岸を制覇し、北上して河間府を占拠している。

 ・寧夏が北京を占領し、南下して保定府までその支配下にある。




「殿下はこれでもまだ、明が弱まるべきだと仰せになりますか。確かに我が国は陝西省の延安の南、山西省の太原府より南、そして真定・済南・青州・霊山衛と、大陸の三分の二を有しております。しかし国力の衰退は明らかで、今でも十分に殿下の望む状態だと思いますが、どうでしょうか」

 沈一貫のその言葉に、純正は考えこんだ。




 次回予告 第854話 『三国鼎立とモンゴルのオルドス・トゥメト・ヨンシエブ・チャハル・ハルハ・ウリャンカイ』

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