慶応二年十月二十九日(1866年12月5日) バタヴィア
『李百里』の遭難を受けて、次郎は全力で捜索すると同時に、全艦の整備点検を実施した。
「Mijnheer Otawa(太田和殿)、我々も全力をあげて捜索しています。考えられる場所としては、スマトラやボルネオの沿岸・島しょ部、さらには仏領のカンボジア。または……」
「イギリス領ですね?」
次郎の表情は暗い。
もしオランダやフランスの植民地以外に漂着した場合は、イギリスに支援を求める必要があるからだ。
日本とイギリスは戦後であり、現在は断交の状態にある。
「フランスにはこちらからも依頼しておきます。時間がかかるかもしれませんが、残念ながら万博の開幕式には間に合わないでしょうね。先発隊を出発させておいて、本当に幸いでした」
「ええ、まったくです……」
次郎はオランダ東インド総督のPieter Mijer(ピーテル・マイエル)の言葉に感謝した。
しかし胃の痛みが治まらない。
■サラワク クチン
「いいか。できるかぎり支援するのだ。食料や水はもちろんだが、船の修理やその他の物資に関しても、万全を期せ」
サラワク王国の次期国王、チャールズ・ブルックは、部下にそう命じている。
叔父であるサラワク国王ジェームズ・ブルックは病気のため本国に帰国していたのだ。彼は次代の王として国政を託されていた。
1866年の時点で、サラワク王国は、イギリスの直轄植民地でも保護国でもなく、理論上は独立した国家である。
しかし、実際にはイギリス海峡植民地政庁や本国との密接な関係を築いていた。
イギリスの支援や後ろ盾を受けながら、領土の拡大や統治を進めていたのだ。
今後も王国の外交や安全保障において、イギリスとの良好な関係の維持は最優先事項である。
そこに両国の利害の一致があった。
イギリスは日本との国交回復を実現するための手段を求めている。
サラワク王国はイギリス本国に対して恩を売っておきたい。
「陛下、植民地政庁のオーファー・カヴェナ総督がお見えです」
「うむ、お通しせよ」
■クチン港
「Heel erg bedankt voor het eten en het water, voor het repareren van het schip en het behandelen van de gewonden. Mijn Engels is niet zo goed. Ik zou graag de verantwoordelijke persoon ontmoeten. Spreekt er iemand Nederlands?」
(食料や水の補給、船の修繕とけが人の治療、真にありがとうございます。私は英語があまり得意ではありません。責任者に会わせてほしい。誰かオランダ語が話せる人はいませんか?)
「What? I don’t know what you’re talking about. Anyway, I’ve been told from the top to be extremely accommodating. What? A refill?」
(何だって? 何を言っているのか分からない。とにかく、上からは至れりつくせりで対応しろって言われてるんだ。何? おかわり?)
「雄次郎よ、船の修繕に加え、食料や水、物資の補充までしてもらっておる。さらにはこの歓待のされようじゃ。ぜひ、上役に直接感謝の意を伝えたい。通訳してくれ」
加賀藩の名代である前田慶寧(よしやす)は、艦長の岡田雄次郎に命令を下す。しかし雄次郎は困惑し、正対して平伏したのだ。
「又左衛門様(慶寧の通称)、真に申し訳ございませぬ。それがし、大村の伝習所にて学び、研さんを重ねてまいりました。されど我が意を伝えることすらままなりませぬ。これはひとえに、それがしの不徳のいたすところにございます」
雄次郎は、多くの他藩の士族と共に大村の海軍兵学校で海軍伝習課程を学んでいた。
幕府の長崎海軍伝習所は門戸を幕臣に限っていたためである。(後の神戸海軍操練所は、一般にも門戸を開放)
学んでいた内容は、測量・算術・造船・蒸気機関・船具運用であり、オランダ語が基本言語であった。
そのため英語を話せる人間はほとんどいなかったのである。
「然様か。よい。そちが努力しておるのはわしもよう存じておる。かような仕儀に相成ったのはわしの不徳のいたすところでもある。されど、この有り様は何とかならんかの」
船の修理や補給、けが人の治療だけにとどまらず、想像を超えるほどの手厚いもてなしを受けていたのだ。
慶寧の前には料理が並び、酒が振る舞われている。
「は、では今一度打診してまいります。同じ人。身ぶり手ぶりでできうる限りを伝えまする」
「うむ、頼んだ」
■クチン政庁
「総督閣下、よくお越しくださいました」
「いやなに。書状の内容を聞いて急いで来ました。ここは代理では済まされません、ブルック総督。私が行かなければ」
「恐縮です」
国王代理のチャールズ・ブルックは、海峡植民地の総督であるオーファー・カヴェナを丁寧に迎え入れた。カヴェナもそれに応じて礼を尽くす。
「さて、ブルック殿下、現在の状況はいかがですか?」
「はい、まずは人命が最優先ですので、乗組員に病人やけが人がいないか確認し、治療しています。また、水や食料、石炭なども補充しました。マストや帆、機関も修理しています」
ブルックはカヴェナに対して丁寧に説明し、自分の行動の正当性を示そうと努めた。
歓待は行き過ぎではないかとは思ったが、それでもイギリスの敗戦と日本との断交は知っていた。母国との関係を優位に保つための措置である。
「そうですか。それは非常に適切な対応です。感謝いたします。それでは、その後の状況はいかがでしょうか? 意思の疎通はうまくいっていますか?」
「残念ながら言葉を理解できる者がいません。ジェスチャーでのやりとりにも限界がありますので、通訳をお願いできますか」
英語でもオランダ語でもフランス語でもない。
中国人に似ているが、中国語ではない。
もし中国語ならば、現地に多数いる華僑に頼めばすむのだ。
消去法で日本人になり、現在に至っている。
「いいでしょう。漂流者を助けるのは万国の常識ですが、今のわが国にとってはまさに渡りに船。日本が万博参加のために艦隊をフランスに向かわせているとの話を耳にしましたが、その中の1隻ではないでしょうか。うまくいけば……」
二人の顔に笑顔が広がった。
■バタヴィア
「Mijnheer(ミーンヘール) Otawa(太田和殿)! 漂着場所が分かりました!」
マイエルは、部下からの報告をそのまま次郎に伝えた。
「! それで、場所はどこですか?」
「……サラワン王国です」
「……そうですか。サラワン王国はイギリスの保護国ですね」
「ええ。独立国ではありますが、イギリスの強い影響下にあるのは確かです」
「……総督閣下、ありがとうございます」
次郎はマイエルに感謝の気持ちを伝えたが、その声には力がなかった。無事が確認できたのは良かったものの、間違いなく交渉が必要である。
「どういたしましょうか? わが国から使者を派遣いたしましょうか?」
「……はい、お願いします。こちらはこちらで準備を進めます」
次回予告 第387話 『サラワン王国での再会』

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