第14話 『魔術師裁判』

 1590年7月16日 オランダ ライデン

 ライデン市庁舎の石造りの法廷には、いつもより多くの市民が詰めかけていた。

 窓から差し込む夏の光は、緊張に満ちた空気を和らげることなく、むしろその場の重苦しさを際立たせている。

 中央の被告席には、まだ幼さの残る12歳の少年、オットー・ヘウルニウスが座っていた。 

 彼の両脇には市の衛兵が控え、前には市判事、助役、そして二人の町医師が並ぶ。

 傍聴席には、オットーが蘇生させた子供の家族や、町の有力者、そして噂を聞きつけた野次馬たちが集まっていた。

 蘇生させた子供、そう、シャルル・ド・モンモランシーの息子、ジャンである。

 その脇にはがっしりとした体躯のシャルルが寄り添っていた。

「静粛に!」

 判事の重々しい声が響く。オットーは小さな拳を膝の上で握りしめ、顔を上げた。

「オットー・ヘウルニウス、お前は神の掟に反し、死者を蘇らせる魔術を使ったとの告発を受けている。何か弁明はあるか?」

 オットーは深く息を吸い、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「裁判長、私が行ったのは医術であり、決して魔術ではありません」

 その声は震えているようで、それでいて芯が通っていた。

 傍聴席からはざわめきが起こる。12歳の少年が、これほどの堂々とした態度で答えられるものだろうか。

「医術だと?」

 判事は眉をひそめた。

「では、なぜ誰も見たことのない術を使ったのだ?」

「父から……父からヒポクラテスやアスクレピアデスの古い文献について教わりました。そこには呼吸が止まった者への処置が記されています」

 オットーの横で、父ヨハネスが小さくうなずいた。

「ほう。では、その文献を示すことはできるか?」

「は、はい。父の書斎に……ただし、もっとも近年の例ですと、60年前にパラケルスス先生が提唱したふいご法があります。ただ、あの場にはなかったので、口移しで空気を入れたのです」

「口移しで……?」

 判事は首をかしげる。傍聴席からもざわめきが起こった。

「はい。口から息を吹き込むのです」

 オットーは冷静に説明を続けた。

 この時代、口移しの人工呼吸など聞いたことがないはずだ。しかし、だからこそ古い文献を引用して、新しい治療法ではないと印象付ける必要があった。

「それに加えて、胸を押して心臓を動かす方法も。これはアブルカシスの著作に……」

「待て」

 判事は手を上げて遮った。その目は鋭く、オットーを射抜くように見つめている。

「お前の年齢で、そのような古い文献を読めるとでも?」

 オットーは一瞬たじろいだ。確かにその指摘は的確だ。12歳の少年が古代ギリシャやアラビアの医学書を読みこなせるはずがない。

 その時、後ろから声が上がった。

「私が教えました」

 ヨハネス・ヘウルニウスが立ち上がる。ライデン大学医学部の教授である彼の言葉には重みがあった。

「息子は幼い頃から医学に興味を持ち、私の研究を手伝ってきました。古い文献についても、私が日々教えているのです」

 ライデン大学は国内最高峰の学府であり唯一の大学である。

 その教授ともなれば社会的地位もあれば名声もある。発言には信頼性があり、社会的な影響力も大きい。

 しかし、問題があった。

「なるほど。教授のご意見は拝聴いたしました。参考にさせていただきますが、残念ながら被告は教授の実の息子でいらっしゃる。いかに教授でも、その発言は息子を擁護しているととられても仕方ありません」 

 法廷内が騒然となった。確かに、父親の証言は被告に有利な証言として扱われかねない。

 しかし、その時だった。

「裁判長」

 傍聴席から一人の男が立ち上がった。背の高い、がっしりとした体格の男性である。

「私はシャルル・ド・モンモランシー。溺れた息子を助けてもらった父親です」

 シャルルの声は、法廷内に響き渡った。

 後ろにはホールン伯、フィリップ・ド・モンモランシーもいる。

 正直なところ、大学の教授や独立戦争の英雄など、関係者に著名人物が多くいる裁判は公平に成立しにくい。

 どうしても利害関係やしがらみが出てるくるからだ。

 人の一生を決める裁判においてあってはならないことだが、この時期の魔女(魔術師)裁判など、法があってないようなものだ。

 今回は、それがいい方に動いている。

「息子のジャンは確かに溺れ、呼吸も心臓も止まっていました。しかし、このオットー少年の処置のおかげで、今こうして元気に過ごしています」

 シャルルは息子の肩に手を置いた。ジャンは小さく頷いている。

「これが魔術だとおっしゃるのなら、なぜ悪魔の力で助けられた息子が、今も教会に通い、神を敬うことができるのでしょうか」

 その言葉に、判事は表情をこわばらせた。

 血縁者であるモンモランシー家の当主代理の証言は判決に関与しないが、無視できない重みがある。

「しかしホールン伯……いや、シャルル殿……」

 判事が続けようとした時、今度は別の声が上がった。

「私からも一言よろしいでしょうか」

 法廷にいた全員の注目が一人の男に集まる。

 ネーデルラント総督のオラニエ公、マウリッツ・ファン・ナッサウである。

 その横でフレデリックはちょこんと立っており、オットーに目で合図する。

(すまん! 兄貴を説得するのに時間がかかった)

 フレデリックの説得を受けて、デン・ハーグからライデンまで傍聴人として参加しにきたのだ。

「これは総督……。何でしょうか」

 マウリッツは判事に向かって、ゆっくりと口を開いた。

「ここ数日、弟のフレデリックから、この件について詳しく聞いていた。オットー少年は、古い医術の知識を現代に蘇らせただけだ。これは魔術でも悪魔の業でもない」

 法廷内がざわめいた。

 総督の言葉には重みがある。教授よりさらに重みがある上に、血縁ではない。

「むしろ、神の恩寵ではないだろうか。死にかけた子供を救う術を、神は古の賢人たちに授けられた。そしてその知恵が、今日まで脈々と受け継がれてきたのだ」

 マウリッツの言葉は、法廷内の空気を一変させた。魔術の疑いをかけられていた医術が、突如として神の恩寵として語られたのである。

「総督、しかし……」

 判事が反論しようとした時、マウリッツは手を上げて制した。

「判事殿。私はこの術を、ライデン大学の正式な研究対象とすることを決めた。オットー少年の父、ヨハネス教授の指導の下で」

 フレデリックは思わずガッツポーズした。

 兄の一言で事態は完全に変わったのである。魔術の疑いは晴れ、むしろ医学の進歩として公認されることになる。

 判事は深いため息をついた。もはや判決は明白だった。

 が……。

「承知しました、総督。しかし最後の判定は神に委ねなければなりません。これ、魔女の秤を」

 判事はそう言って助手に大きな秤を持ってこさせた。

「被告オットーはこれに乗り、体重を量るのだ。99ポンド(約45kg)未満であれば魔術師の証である」

 まったく何の根拠もない判定法である。

 魔術師も魔女の荒唐無稽ではあるが、魔女は空を飛ぶために軽いと考えられていたのだ。しかしこれはまだマシな方である。

 容疑者は裸にされて拷問を受け、自白を強要されてそれが証拠となったのだ。

 荒唐無稽な方法でも、基準があるだけマシなのだ。

 102ポンド(約46.3kg)ーー。

 それがオットーの体重であった。

 16世紀のヨーロッパの少年が、推定ではあるが、多くが魔女に該当する体重(身長も低い)だったのである。

 おそらくは栄養状態も悪かったのだろう。

 にもかかわらず、オットーは合格したのだ。 

 もちろん、オランダにおける魔女裁判の事例を調べ上げ、今日までにオットーに毎日ドカ食いさせていたのはフレデリックである。

「まったく、さすが1+1=2のマウリッツだな。しかし、本当にありがとう」

 シャルル・ド・モンモランシーが戦友のマウリッツに礼を述べた。

「なに、オレは主を信じていないわけじゃないが、それによってオレの合理主義や実利主義が損なわれてはならん。それにお前にはもっと働いてもらわなきゃならんからな。息子を救ったせいで人が死んだとなれば、お前、仕事どころではないだろう」

「ははは。確かに。でも医学部の研究の件は本当なのか」

「ああ、弟のフレデリックもそうだが、なんだかオレの周りは神童が多いようだ」

「私からもお礼申し上げます」

「ああ、これは教授」

 オットーの父であるヨハネス・ヘウルニウスが深々と頭を下げた。

「いえいえ、生きるべき人間が死ぬなんて、あってはならんことです。それよりも教授、頼みましたよ」

「はい、お任せ下さい」

 今日、この日が、オランダ医学が急激に発展する礎となったのであった。

 次回予告 第15話 『第2回コンパス会議とオランダの現状。今後の作戦会議』

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