第855話 『保定府会談と草原の狼煙』

 慶長三年九月一日(西暦1598年10月1日) 天津衛

「なに? ヌルハチはおらんのか?」

 三国戦争の調停をするべく渡海して天津に到着した純正であったが、河間府にヌルハチがいないことを知って驚いた。

 随行はいつもどおり戦略会議室の面々である。

「戦の最中に総大将がおらぬとは、なにか国許で起きたか」

 頭をひねる純正に対して直茂が話しかける。

「殿下、おらぬものは仕方ありませぬ。ここは河間府はあいさつのみとし、そのまま保定府まで行きましょう。どのみちヌルハチがおらぬでは女真は動けぬし、兵も守備兵の他はここにはおりませぬ」

 兵とヌルハチがいないとなれば、兵が必要な有事が発生したと考えるのが普通である。

 付近にいた満州国の守備責任者に聞いても、本当のことを話すとは思えない。

「うむ。そうよの。他所の心配をしても始まらぬ。支度が出来次第保定府へむかうーー」

「申し上げます!」 

「何事か!」

 突然、在天津の情報省官僚の一人が駆け込んできたかと思うと、直茂の声を聞き、姿勢を正して大きな声で伝えた。

「モンゴルが連合を組んで女真を攻めた由にございます!」

 基本的に軍事も含めた情報は、首都にある情報省を介して純正に伝えられる。

 しかし純正は移動することも多く、リアルタイムでの情報の伝達が出来ないのだ。この情報はいったん諫早本部に届いた後、天津へ送られた。

「殿下、われらが何もせずとも、モンゴルが動いたようです」

「なんと、ふふふ。然様か。では話が早い。ヌルハチは和議に乗るであろう。問題は寧夏であるな。哱拝にも会うたことがないが、はて、哱承恩はいかなる男かの」

 は、と直茂が返事をする。

「哱拝と哱承恩にあったことがあるのは外務省の対馬守殿(柳川調信)でございます。聞くところによりますれば、承恩は有能ではあるが経験が足りないために勢いに走るきらいがあるとか」

 経験不足によって勇み足となるのは、誰にでもあることだ。

 かくいう純正にしても経験がないわけではない。

 周りを固める重臣が有能で経験豊富だったからこそ、大事に至らずに済んだのだ。

「そうか。此度のモンゴルの挙兵、承恩の策によるものであろうか。今女真が退いてしまえば、明と戦をするにあたって苦労すると思うがの」

「その通りでございます」

 直茂は静かに頷いた。

「寧夏と女真が手を組み、明を挟撃する形となっておりましたが、今、女真が撤退すれば、寧夏は一国で明と対峙することとなります。しかも明軍は南下し、防衛線を固めた。民も立ち上がっております」

 直茂の分析は的確だった。寧夏は明との戦いで勝機を掴みかけていたが、女真が撤退すれば形勢は一変する。

 いや、敗色濃厚になるというわけではない。

 このまま南進を続けられなくなる、ということだ。

 女真と共同で明を攻めることで戦力的に優位になり、北からと東から攻めることが可能だったのだ。

「であればなおさら、承恩は和議に乗るはずじゃ。このまま進めず、保定府に兵を留まらせては金がかかるばかりであるからの」

「仰せの通りにございます。されば此度のモンゴルの儀は族長どもが勝手に起こしたこと。彼の者らも、寧夏と盟は結んでいるものの実入りがなく、この隙に女真をかすめ取ろうとしたのではないかと存じます」

「ふむ……では参ろうか」

「はは」

 ■慶長三年九月五日(西暦1598年10月5日)保定府

「陛下、肥前国の国王、小佐々平九郎様がお越しになりました」

「なに? 肥前国王だと?」

 承恩はその報告を聞いて考え込んだ。

 今、女真と共同して明を攻めている。

 兵力、士気ともに味方が優勢で、このまま南下して真定府をおとせば、北直隷の天津衛を除く中北部を手中に収められるのだ。

 だが、ここにきて、突然のヌルハチの退却と肥前国王の来訪である。

 そこに何か因果関係はあるのか?

 モンゴルの諸部族に関しては、今回の派兵にはまったく関与していない。

 しかし、相手は超大国、肥前国である。

 礼を失する事があってはならない。

 同盟を結んでいないとはいえ、父の代から交易を行い、友誼を通わしてきたのだ。

「これはこれは、肥前国王、平九郎陛下。私は寧夏国王、哱承恩です。天津衛は我が領土と接しているとは言え、海を渡ってのご訪問、何か重大なご用件でもあるのでしょうか」

 当たり障りのない挨拶である。

 承恩の声は穏やかだが、瞳の奥には警戒の色が潜んでいた。背後に控える土文秀ら重臣たちも、純正一行の真意を測りかねている。

「互いに利のある話です。この戦、そろそろ潮時かと思いますが、いかがでしょう」

 承恩は純正の言葉に眉をひそめた。

「潮時とは、どういう意味でしょうか」

「ヌルハチはすでに撤退の途にあると聞き及びます。モンゴル諸部族の連合軍が遼東に攻め入ったそうですね」

 純正の言葉に承恩の顔が強張った。

 純正は女真とモンゴルの動向を正確に把握している。

 しかもおそらく、自分達よりも。

 そう判断したのだ。

「では、その件で来られたのですか」

「いや、それは貴国とモンゴル、それに満州国の問題。我が国が口を出す筋合いではありません」

 純正は穏やかな口調で続けた。

「ただ、このまま南下を続ければ、明との戦いは長期化するでしょう。明は南遷して防衛線を固めました。義勇軍も立ち上がっております。今や明も簡単には崩れぬと思いますが、いかがですか」

 承恩は黙って純正の言葉に耳を傾けていた。確かに、女真軍の撤退により、明への攻勢は鈍らざるを得ない。

「では、何を仰りたいのでしょうか」

「今、貴国は保定府まで進出している。明も開封に遷都し、防衛線を整えた。ここで和を結べば、互いに良い塩梅ではないかと思うのですが」

 承恩は側近の土文秀と目配せを交わした。

「確かに、女真の撤退は誤算でした。しかし、ここまで来て引き返すわけにも……」

「引き返す必要はありません。現在の領土をそのまま保持すればよい。保定府を南限とし、そこから北を貴国の領土とするのはいかがでしょう?」

 純正の提案に、承恩は思わず身を乗り出した。

 丁寧ではあるが、慇懃無礼ではない。

 しかし、まるで戦後の論功行賞のような口ぶりである。

 大陸の領土を、自国の領土かのように。

「……ふむ。それであれば、我が軍にも利があっても害はない。しかし、明が反対に攻め寄せて来ぬ保証はあるのですか?」

「それは私が保証しましょう。もし貴国がそれでご納得したならば、私はこれから開封府へ向かい、万暦帝と会談します」

「わかりました。しかし、即決はできません。重臣たちとも相談したいが、よろしいか?」

「かまいませぬ」

 寧夏・女真の対明戦線、休戦となるか。

 次回予告 第856話 (仮)『開封府での会盟とモンゴル対女真』

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