第390話 『交渉の平行線――補給地の誘惑と日本の決断』

 慶応二年十一月十日(1866年12月16日)サラワク王国 クチン

 ガウワーの言葉の裏にある意図を感じ取りながらも、次郎は表情を崩さず、静かに返答した。

「過去の出来事は決して忘れませんが、未来を築くためには慎重な歩みが必要です。今はまだ状況が整っているとは言えません」

 ガウワーはわずかに口角をあげ、数回軽くうなずいている。

 次郎の言葉が途切れたのを確認すると、彼は外交官らしいほほえみを浮かべた。

「Mr.オオタワ、我々は貴国の自立と発展を心より願っています。しかし、国際社会の荒波の中で独り立ちするのは容易ではありません。共に航海する友人は多い方が良いのです。イギリスはこれまで、世界中でその役割を果たしてきましたし、今後も貴国の友人であり続けたいと考えております」

 友人であり続けたい?

 次郎はかすかな笑みを浮かべながらも、少しだけ眉をひそめた。

「友人とおっしゃるのは、確かにそうかもしれません。しかし……」

 次郎は自らの考えを整理しながら話を続ける。

「友人とは対等な関係であるべきです。果たして、現時点でわが国とイギリスは対等な関係を築けるのでしょうか」

 ガウワーの表情がわずかに硬くなった。

 次郎の言葉の真意を理解したのだろう。

 日本はイギリスに対して警戒心を抱いているのだ。

 それは軍事的な戦力差を示しているわけではなく、イギリスの日本に対するスタンスを指している。一度や二度の敗北では、イギリスの国力は揺るがない。

 確かに、極東におけるプレゼンスは低下した。

 しかし、彼らはすぐに回復できるだけの国力を持っているのだ。

 日本は一度敗北してしまうと、艦隊の再建に何年かかるか予測できない。

「Mr.オオタワ、我々は決して貴国を従属させる意図はありません。それが不可能であることは明らかです。むしろ、インドやアフリカにおける補給地の提供を通じて、貴国の航海を支援したいと考えております」

「ガウワー殿」

 次郎は静かに、しかし毅然きぜんとした態度で返答した。

「友人からのご提案に、心より感謝申し上げます。れど、今のわが国には少々早すぎる。もう少し時間が必要です」

 まったくの押し問答である。

 話が進まない。

 加賀藩艦『李百里』の遭難に関しては、全ての費用を負担し、感謝の意を正式に表明して終わる。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 ただそれだけである。

 次郎をはじめとする日本の総意なのだ。

 国交を回復したいイギリスと日本の間では、お互いの外交的な考え方が交わらない。

「時間が必要とおっしゃいますが、我々は貴国の科学技術に非常に興味を持っています。例えば、貴国が開発した蒸気機関の改良型や電信技術を、共同で発展させる提案はいかがでしょうか?」

 正直に言うと、科学技術の分野においてイギリスと協力するメリットはあまりない。

 動力に関する技術においても、日本(大村藩)は数年から数十年先を行っている分野が多く存在する。

 次郎は隣にいる隼人と廉之助を見るが、二人はまるで息を合わせたかのように首を横に振った。ふだんは競い合ってばかりの二人だが、珍しく意見が一致したようだ。

「ご提案いただき、ありがとうございます。しかしながら、国交や通商においては、双方に利益がなければ進める意味がありません。現時点ではその段階には至っていない。また、貴国に関するこちらでの噂も、あまり口にしたくはありませんが、必ずしも良いことばかりではないようで」

 ガウワーの表情が一瞬、凍り付いた。

 次郎の言葉は、現地でのイギリスの植民地支配の実態に迫ろうとしているのだ。

「Mr.オオタワ、噂とはどのような……」

「例えば、アヘンの密輸や現地住民に対する圧政といった話です。もちろん、あくまで噂に過ぎませんが」

 会場の雰囲気が一変する。

「全く根拠のない噂です……。Mr.オオタワ、あなたの言葉は重い」

 ガウワーの声は低く、威圧感を漂わせていた。

「われわれの人道支援に感謝の意を示しながら、裏で非難の言葉を口にする。これは外交官として、決して見過ごせない発言ですぞ」

「非難ではありません。ただの噂話に過ぎませんし、もし事実でないのなら、それはそれで結構ではありませんか」

 次郎は平然と答えたが、むしろ相手の反応から、情報の信ぴょう性が高いと確信する。

 ガウワーはしばらくの間沈黙し、手元のグラスに目を落とした。

 沈黙が会場の空気を一層重くする。

「……Mr.オオタワ、外交の場で根拠のない噂を持ち出すのは、決して賢明な行動とは言えません。しかし、もし貴国が本当に疑念を抱いているならば、我々としても今後の協力のあり方を再考せざるを得ません」

 ガウワーの声には、いら立ちと警戒が入り混じっていた。

 次郎は穏やかな口調で応じる。

「疑念を抱いているわけではありません。ただ、われわれは事実を自分たちの目で確認し、判断したいだけです。貴国の善意を疑っているわけではありませんが、善意で始まったとしても、結局は大なり小なり、国益が関連してくるのです」

 ガウワーはグラスを静かに置き、深く息を吐いた。

「……それが貴国の方針であるなら、我々もそれを尊重いたしましょう。ただし、我々の提案は今後も変わりません。必要ならば、いつでも協力する準備があることをお忘れなく」

 次郎は静かにうなずいた。

「ありがとうございます。必要な際には、改めてご相談いたします」

 ガウワーは一礼し、席を立った。

 交渉を続ける意向がないのは明らかである。

 次郎は隼人と廉之助に目配せして、彼らも静かに席を立った。

 宴会場のざわめきが、次第に遠のいていく。

 交渉は平行線のまま終わった。

 というよりも、そもそも次郎は交渉の目的や意味を見出せなかったため、平行線と呼ぶかどうかは、後の歴史家たちの見解が分かれるところだ。




「兄上、少しよろしいですか」

「うん? なんだ?」

 ガウワーとの会談が終了した後、彦次郎の勧めで次郎は前田慶寧と岡田雄次郎に挨拶をして、その後席を外した。

 ちなみに、歓待の席は外交が失敗したからといって、簡単に撤収するわけにはいかない。

 ここで撤収すれば、イギリスもサラワク王国も、あまりに露骨すぎるからだ。

「兄上、加賀の御家中の儀ですが、如何いかがなさるおつもりですか」

「うん? 如何とは?」

 次郎は彦次郎の顔を見て考えるが、いっこうに浮かばない。

「何のことだ?」

「……帰国の儀にございます。さきの会合で土佐家中の船を除いて四御家中の船を帰国させると決まり申した。然りながら此度こたびの加賀家中の働き、何物もなきではございませぬ。それでも日本に帰すのですか?」

「然り。まさに(確かに)加賀家中の方々の情報には助けられた。然りながらそれはそれ、これはこれじゃ。船の運航の有り様に変わりはあるまい? バタヴィアで待っておる他の御家中の船と同じく、帰国していただく。変わりはない。然れど……」

「然れど?」

 彦次郎の質問に対して、次郎はうなずきつつ、一呼吸置いてから続ける。

「合議にて決まったことではあるが、前田様には、改めてご自身で決めていただく。いずれにせよ、船と乗組員は日本に戻るが、ご自身で決めていただくのがよいのだ」

 彦次郎は兄の真意を理解した。決定事項を伝える一方で、加賀藩の判断を尊重するという姿勢を示している。

「では兄上、前田様にお伝えして参りましょう」

「うむ。頼むぞ」




「前田様、少しよろしいでしょうか」

 彦次郎は岡田雄次郎を介して用件を伝え、次郎と共に慶寧に伺いを立てた。

「ああ、その儀にございますか。然もありなん。我らとて無念ではありますが、事ここに至っては、論じてもせん無き(仕方がない)事。わしの力が足りぬばかりに、皆にも苦労をかけてしまった。潔く船は加賀へ戻しましょう」

 驚くほどあっさりとした反応である。

 決定事項は変わらないものの、次郎は多少の反論があると考えていたのだ。

「此度の不手際、ひとえにわしの不徳のいたすところ」

 慶寧の言葉の裏には、父親の権力の傀儡かいらいである自分への、自虐的な意味合いも含まれていたのだ。

 慶寧は4月に家督を相続する予定であったが、万博への派遣のため延期され、帰国後に相続する流れになっている。

「加賀も、変わらねばならんのだ」

 次郎が聞いていた話は、どうやら本当のようだ。

 加賀藩の実権は慶寧の父である斉泰が握っており、家督を相続しても恐らく続くだろう。

 藩政改革において、陸軍偏重の傾向を指摘し、藩の将来は海軍の拡充にこそあると考えていたのだ。

 藩論が統一されず、政権交代のたびに重商主義と重農主義が交互に現れる状況である。

 今回初めて慶寧に会った次郎だったが、慶寧には父親の斉泰とはまったく異なる印象を受けた。




 加賀藩は、今後どう変化していくのであろうか。

 ともかく、加賀藩の『李百里』も他と同じく帰国する運びとなり、日本艦隊はようやくバタヴィアを出発できるのだ。




 次回予告 第391話 (仮)『レユニオン島』

コメント

タイトルとURLをコピーしました