永禄十二年 十一月二十五日 諫早城
長宗我部元親には香我美郡八千石、長岡郡六千石、吾川郡一万石の、計二万四千石を安堵した。浦戸は租借から割譲へ変わったものの、領内の発展に使う資金は無利子である。
また、船舶や人の出入りも簡素化し、浦戸での権益もみとめたのだ。安芸郡の一揆は仲裁に入り一万石を安堵、残りを直轄地とした。
一条兼定が任官すれば、小佐々領内の四国は(暫定? 総督)の宗麟が治め、その下に一条が入り、長宗我部や安芸が入る形になる。
土佐の一連の騒動は、ようやく決着がついたのだ。
そして長宗我部元親が帰路について二日後、幕府から御教書の真偽に関する回答書が届いた。
小佐々弾正大弼純正に告ぐ。
問い合わせの件見極めたれば、伊東祐青が申し立てる御教書の件、以前伊勢貞孝が取り調べの折、幕府が用いざる言葉遣いが見受けられた。このことより、その御教書は真実でないと考えざるを得ぬ。
さらに、彼の父、義祐が永禄三年、我々の命に従わざる所作を示したりし事、忘れじ。
その時の和平の申し出を拒み、さらに翌永禄四年にも飫肥に攻め入るという振る舞いを見せたり。幕府として、これを許すことは難し。
従って、伊東祐青の申し立てによる御教書、仮に真実であったとしても、今、これを無効とする。
日向を統べる権については、小佐々弾正大弼純正の決めに従うよう命じるものとする。ここに、幕府の意向を示すものとし、伊東家にもこれを守るよう命じるものとする。
実際のところ、純正はどちらでも良かった。
御教書自体が百年近く前のものであるし、十年前の永禄三年(1560年)に真偽を確かめた政所執事の伊勢貞孝も、その二年後の永禄五年(1562年)に亡くなっている。
要するに確かめようがないのだ。どちらにせよ祐青を納得させるための口実に使っただけなので、本当でも嘘でも、先だって示した仕置きに変わりはない。
納得しなければ、滅ぼすしかないのだ。そうしなければ三州守護で島津を納得させた意味がない。嘘つきになってしまう。
純正は書状の内容を複写して、自らの書状と一緒に日向国、都於郡城へ送った。
■十一月二十八日 巳の三つ刻(1000) 都於郡城
「殿、殿! 諫早の弾正大弼様より文が届いております!」
服属したとはいえ、まだ伊東家中には純正を御屋形様と呼ぶ風習はできあがっていない。近習の報告に、祐青は祐兵とともに緊張の面持ちで書状を受け取り、読む。
……。落胆である。正直なところ、祐青は真偽のほどはわからぬが、正しいという事であれば利用しようと考えていた。しかし、結果は偽書。
そして幕府の命に従わなかった事で、改めて偽書と認定されたのだ。
しかし添えてある純正の書状には、幕府の判断によりて純正の決定に変わりなし、仕置きに従うなら同じ小佐々家中として扱おう、とある。
「義兄上、われら伊東はどうなりましょうや」
不安にかられる当主の祐兵は、義兄である祐青に確認する。無理もない。わずか十一歳なのだ。
「殿、急いてはなりませぬ。今こそ心を鎮め、使者や斥候からの報せを待ち、上策を練らねばなりませぬ」
祐青ですら二十七歳なのだ。内心は動揺を抑えるのが精一杯である。
「宗並、宗昌よ。なにか策はあるか。先日の薩州の使者の件、その後調べはどうなっておる」
十月二十二日に、薩州島津の阿久根良有という者が使者として訪問してきた。
『小佐々のやり方には我慢がならぬ。十二月の一日に相良、肝付と時を同じくして薩摩と大隅の国人が蜂起するので、一緒に蜂起してくれ』というものだ。
しかし、阿久根良有という家老は実在するが、発言の真偽は確たる証拠は得られないままであった。
「修理亮様、今は弾正大弼様を信じるしかございませぬ。ここで見るべきは相良と肝付の動きにござる。われら三者は、ともに味方として戦ってまいりました」
祐青も祐兵も、宗並の言葉に聞き入る。
「そして起つという国人は、すべて敵方の島津にございます。もし、薩州島津の使者の言が誠であれば、相良も肝付も起つはずでございます」
荒武宗並の発言の後に山田宗昌も続く。
「さよう、十二月一日に相良、肝付とも動きなければ、絶対に動いてはなりませぬ。動けば敵とみなされましょう。動くだけが策ではありませぬ、ここは我慢でござる」
宗並いわく、相良と肝付には間者を忍ばせているという。あわせて、島津の兵で日向を治めているのは真幸院と北郷のみ。その二カ所にも忍ばせている。
一日の段階で動きがあれば、報告がくる。
噂が本当で相良や肝付が動くのであれば、南九州は再び騒乱の渦の中に入る。
祐青は考えている。このまま待って純正の沙汰どおりとなるか? それとも蜂起して拡大路線をいくか?
「宗並よ、おぬしは総じて純正に従う方針であるな。宗昌も同じか?」
荒武宗並はさようでございます、と返事をし、山田宗昌が答える。
「殿、それがし密かに、この三国の盟と小佐々の助力がなってより、弾正大弼様を調べておりました。ことさら高く評するつもりはござりませんが、信用に足るものと見受けまする」
「どういう事じゃ」
祐青は尋ねる。
「は、小佐々家中と言っても良いのでしょうが、決して自らは攻めませぬ。攻められた、もしくは攻められる時のみ攻めておりまする」
うむ、と祐青。祐兵は黙って聞いている。
「そして、弾正大弼様から約を違えた事は一度もありません。松浦の旧臣や大村・有馬の旧臣、そして龍造寺にも聞いております。みな直接・間接的に小佐々を攻め、敗れておりまする」
「それで?」
「はい、その後の大友も、結局は雌雄を決さねばならない相手でした。筑前筑後の国人がみな小佐々を頼りにし、豊前の毛利方の国人が小佐々に寝返り、攻められて大友を討ったのです」
「ふむ」
「四国の一条は大友の縁戚、助勢して四国に攻め入るのは必定。これらすべて弾正大弼様から仕掛けた戦にござりませぬ。また、仕置きの約定、違えた事もない、そう多数より言質を得ております」
「なるほどのう……」
祐青はしばらく考えていたが、宗並も同意見だと聞くと、心を決めた。
「殿、この上は待ち、小佐々家を信じる、これが伊東が生き残る術かと存じます」
「義兄上が、そういうなら、私に異存はありませぬ。小佐々に従いましょう」。
伊東家は十二月一日を待つ。
コメント