天正十七年六月二十四日(1588/8/16)
「な、なんだと? そんなバカな……」
フェリペ2世はアルマダの海戦の敗報を絶望と共に知った。
手から報告書が滑り落ちて床に散らばるが、側近たちは固唾をのんで王の反応を見守っている。やがて彼は深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「我が無敵艦隊が……敗れたというのか」
側近の1人が恐る恐る口を開く。
「陛下、さらにヌエバ・エスパーニャからの報告も届いております」
彼の目に鋭い光が宿った。
「言え」
「極東の国、日本の一部である肥前国が驚異的な海軍力を保有しているとの情報です。フィリピーナ諸島周辺での彼らの活動が活発化しているようです」
「失い、いまだ取り返せぬ土地があり、その地を制覇した蛮族どもが、我らの海を跋扈しているというのか……」
スペインは肥前国との2度にわたる敗戦で手痛い打撃を被っている。信じられない事ではあったが、度重なる報告でそれは真実となり、スペインの歴史における大いなる汚点となっていたのだ。
「至急大臣達を招集せよ。そして、ヌエバ・エスパーニャの副王に至急連絡を取れ」
「かしこまりました。どのようなご指示を?」
フェリペ2世は地図上のメキシコを指さしながら答えた。
「可能な限りの艦隊を編成し、本国へ向かわせるよう命じよ。早急に海軍の立て直しが必要だ」
側近が懸念を示す。
「しかし陛下、その命令がヌエバ・エスパーニャに届くまでに数ヶ月かかります。そして艦隊がこちらに到着するまでには……」
「わかっておる。だが、他に選択肢はない」
彼は再び執務机に向かい、ペンを取った。
「まずは、この危機を乗り越えるための戦略を練らねばならない。教皇にも事態を報告し、支援を要請せよ」
その表情には、深い憂いと共に、決意の色が宿っていた。
史実ではその後もスペインは制海権を維持し続ける。
欧州およびアメリカ大陸における覇権国家としての地位はしばらく続き、イギリスがそれに取って代わる強力な海軍を持つ海洋覇権国家となるまでには、さらに多くの時間が必要だった……。
……はずである。
しかし、ヨーロッパでの劣勢と肥前国の台頭によって、本来行われていたはずのガレオン貿易が消失した。
スペインの財政は悪化の一途をたどり、4度にわたって派遣されたイギリスへの無敵艦隊の再編にも、時間がかかることになったのだ。
■印度 カリカット総督府
「これは関白殿下、ようこそおいでくださいました。ご尊顔を拝し、恐悦至極にございます」
総督の下島次郎左衛門親貞が純正を迎えた。親貞は来島村上家の家臣である。港には満艦飾で印阿第一艦隊の新造蒸気軍艦が出迎えていた。なんとも壮麗である。
こころなしかお祭り騒ぎのようにも見える。
「親貞よ、故郷である来島をはなれて数千里、寂しゅうはないか?」
「は、ありがたきお言葉。幸いにして家族をはじめ親族はこちらに移り住み、こちらで孫も生まれました。最初は慣れぬ土地で苦労もありましたが、今ではサーグ、サンバール、コルマ、ダールなどは某の好物にございます」
「? なんだそれは?」
純正が聞いた事もない料理名である。インドの民族料理なんだろうか? 純正の頭にはカレーとナンしか思い浮かばない。
「クミンやコリアンダー、カルダモンなど様々な香辛料を混ぜて水に溶かして沸かし、ドロドロにしたものを……」
「しばし待て、それはカレーの事か?」
「カレー……とは?」
実はカレーというのは日本をはじめ欧米で知られた名称であり、インド料理にカレーという料理は存在しない。親貞が言ったのは、そのいわゆるカレーと呼ばれるものの『種類』で、それぞれが独立した料理なのだ。
「なるほど……世界とは広いものだな。オレもまだまだだ」
純正はそう言って笑う。
総督府へ向かう間に宿舎へ寄って家族と別行動になり、純正と閣僚だけが総督府へ向かう。今回も挨拶をした後で歓迎の祝賀会が行われ、翌日から視察が始まるのだ。
■翌日 総督府
「では親貞よ、このカリカット総督府領内の現状の報告と、問題となる点や改める点を教えてくれ」
「はは」
親貞はテーブルの上に大きな地図を出し、説明を始めた。
「まず、わが総督府が治める地域は広大であり、マラッカを起点としてアンダマン諸島を経て印度洋、そして印度、亜剌比亜海を経てソコトラ島までとなっております」
「うむ」
「然りながら陸上においては様々な王国が乱立しており、わが国の拠点は陸続きではなく海路によって通じております。然れば海軍のさらなる強化と交易商団の強化が求められるかと存じます」
「うむ。海軍力の強化については我が国が海運国家であるがゆえの定めであるな。増強計画においては一個艦隊の配属が終わったばかりであるが、さらなる強化をせねばなるまい。他には?」
陸上における飛び地の統治は難しい。海路でつながっているというだけでも利点である。逆に海路を断たれれば孤立するため、親貞が言うように強大な海軍力は統治において必須であった。
ルソンやニューギニアにおいてはスペインに対抗するためであったが、印度においては広範囲に点在する領土を維持するために必要であったのだ。
「次に、内陸部の情勢についてでございます。ムガル帝国のアクバル帝が強大な力を持っており、デカン地方への進出を進めています」
親貞の報告を純正は真剣な表情で聞き入った。
「ムガル帝国か。確かポルトガルはゴアに拠点をおいて彼等と盛んに交易をしているようだな……。ムガル帝国とポルトガルの関係か。これは我らにとって機会でもあり、脅威に……絶対にならぬとは言えぬな。ポルトガルとは友好関係にあるが、支援国家が違うゆえな」
純正は顎に手を当てながら、深く考え込んだ様子で言った。
「さすがは殿下。その通りでございます。アクバル帝は寛容な宗教政策を取り、ヒンドゥー教徒との融和を図っております。また、彼の軍事力と行政手腕は非常に優れており、我々の領域にも影響を及ぼしかねません」
純正は地図を見つめながら言う。
「うべなるかな(なるほど)。彼らとの関係を如何に築くかが肝要じゃが……。力の均等が望ましいの。アクバルの力がこれ以上強まれば我らが困るし、ヴェンカタ2世が強大になれば、ポルトガルとの間に溝が生じるからの。両国には悪いが、平穏が一番である。ポルトガルとの友好関係は必須であるし、難しい舵取りになりそうだが……」
「その通りでございます」
親貞は同意した。
「また、北部、南部ともに難民やわが領土への移民がここ数年増大しており、これ以上の人口密集を防ぐために、セイロン島への移住を勧めております。カリカット、ボンディシェリ、マスリパタムにおいては土地が足りず、王国にさらなる土地の購入を願い出ておりますが、その代わりにムガル帝国へ対抗するために軍事支援を要望しております」
「ふむ……これはポルトガルとも話さねばならぬ事ではあるな。彼の国にとっても、我が国とともにムガル帝国との友好は不可欠であろうからな」
「は……」
インドの交易品は多岐にわたっていたが、生産量と移動コストの面で、同じ商品であれば現地で得られるものが一番利益を生んだのである。
ちなみに交易品は以下のとおり。
※北インドの特産品
・インド|更紗《さらさ》(織物)・インド藍(染料)・ルビー(宝石)・アベンチュリン(宝石)・ジャスミン(香料)
※南インドの特産品
・紅茶(嗜好品)・コショウ(香辛料)・カルダモン(香辛料)・白檀(香料)・インド茜(染料)
※コショウは北インドでも生産。
「複雑な力関係だ。しかし、これも機会となり得る。我々の強みを生かせば、この地域での影響力を強められるかもしれない」
カリカット総督府は、強大なムガル帝国との共存、ポルトガルとの友好関係維持、そしてヴィジャヤナガル王国との同盟という複雑な外交戦略に向けて動き出そうとしていた。
次回 第745話 (仮)『ソコトラ島の海賊とケープタウン総督府』
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