嘉永二年七月二日(1849/8/2) 五教館大学 石油精製研究室
(まったく、いつもながらざっくりとしたお人だ……)
例によってオランダ人医師・化学者のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークは、信之介から渡されたメモを見ながら、何度も読み返してある結論に達した。
・30℃~180℃無色透明
・170℃~250℃無色透明
・240℃~350℃淡黄色
その結論を元に、ブルークは原油を蒸留する実験をしていた。蒸留装置に原油を注ぎ、慎重に加熱を始める。名前はまだ不明だが、このメモによると、少なくとも三つの物質ができる。
「温度管理が大切です。ゆっくりと加熱します」
ブルークは装置を見守りながら言う。温度が上がるにつれ、蒸発した気体が冷却管で冷やされて液体になっていく。
「良し。これが最初の30℃から180℃の物質ですね」
それを聞いて賀来惟準・三綱。惟舒の三人はメモをとり、温度計に目をやりつつ、気化した物質が冷却され液体になって容器にたまる様子を観察している。
それは突然やってきた。
一瞬で蒸留装置から引火し、瞬く間に火が燃え広がったのだ。
「火事だ!」
ブルークが叫ぶと同時に、傍らで研究を観察していた助手の賀来惟準、三綱、惟舒らは驚いて後ずさった。火は燃え広がり、騒然となる。
「消さななければ!」
ブルークが叫んでバケツに急いで水を汲んで火に掛けたが、いっこうに消える気配がない。このままでは研究室中に燃え広がって、棟ごと燃えてしまう。
「まずい、消えない!」
水で消えない炎にブルーク達が右往左往していると、騒ぎを聞いて駆けつけた信之介が叫ぶ。
「水じゃダメだ! 布団を持ってこい! 水で濡らすんだ!」
惟舒が急いで宿直室から布団を持ってくると、信之介は布団を水で湿らせ、燃えているテーブルにかぶせる。布団が火を覆い、空気を遮断したことで、ようやく火の勢いは弱まっていった。
「先生! 助かりました!」
ブルーク達が安堵の声を上げた後、しばらくして一之進達が血相を変えてやってきた。外科医である一之進と敬作、宗謙、内科医の俊達、見習いの俊之助、そして産婦人科医のイネである。
六人は火事で多数の負傷者が出たという報告を聞き、急いで駆けつけたのだ。
「負傷者はどこだ? まず俺がトリアージする!」
一之進が切迫した様子で全員に指示を出そうとした。
「待ってください。いえ、ありがとうございます。……けが人はいません。みんな、無事です。火はすぐに消し止められました」
ブルークはまだ日本語が十分に話せないので、惟準が状況を詳細に説明した。
「なんだ、誤報か……ふう、良かった」
一之進たちはホッと胸をなでおろしたが、念のため助手たちの健康状態を確認する。
「怪我人がいなくて本当によかった」
敬作の言葉にイネが続く。
「でも、もしもの時は私たちが全力で治療にあたります」
「イネさん、縁起でもないこと言わないでください」
賀来家三男の三綱が言うと、場がなごんだのか、笑いが起きる。ブルークは一之進達の迅速な対応に感謝の意を表す。
「ありがとうございます」
流ちょうな日本語とは言い難かったが、それでもブルークの感謝の気持ちは十分に伝わった。
(火気厳禁。十分な注意と対処法……ちょっと雑に渡しすぎたか。しかし、本当にみんな無事で良かった)
信之介は新しいメモに、温度別に、ガソリン・灯油・軽油とその用途を書いて渡した。
■産物方
研究室のボヤ騒ぎが収まった頃、お里のもとに大浦慶がやってきた。
「あらお慶ちゃん、どうしたの? ジロちゃんなら留守だよ~」
仮にも藩の家老をちゃん呼ばわりとは。結婚しているパートナーでさえ、この時代にはあり得ない事だ。お慶を信頼しての事か、それとも普段からそうなのか。
ちなみに公式の場では『御家老様』『お里殿』で通っている。
「これは奥方様、このたびは御家老様にお知らせとお願いがあって参りました」
「またぁ~いいよお慶ちゃん! この前の事は誤解を招くような事すんなって言っておいたから。それに昔みたいにお慶ちゃんでいいよ。あ、お姉さんでも。で、どうしたの? 商売の話なら、ジロちゃんが留守の時は聞く様に言われているけど」
お里はかろやかに笑って答えた。
「……では、お里、さん? 」
「んーまあいいや。それで、どうしたの?」
あっけらかんとしているお里の態度に、お慶の態度もやわらぐ。
「えーっと、じゃあ、この前のお茶の貿易の件なんだけど、別の商人から商会を通じて注文が来ているのです」
(佐賀藩もお茶の輸出には気付いてないし、八女茶に関しては福岡藩じゃないから直接は売買できない。今のうちにシェアを独占して大村藩ブランドを確立しておかなくちゃいけないな)
やはり、次郎の妻である。
「なるほど! わかったよ~。んで、どのくらい?」
「それが……大小あわせて八万千八百斤ほど……」
「8万斤! ?」
わずか三ヶ月でもう3万5千斤の噂が広まったのだろうか。恐るべき商人ネットワーク。香港・広州・福州・厦門・寧波・上海のイギリス商人すべてか?
(どうしよう。調達できるかな? どうせジロちゃんの事だから、『次からはいくらでも受けていいよ~』なんて言ったんだろうな)
「うん。わかった。でもすぐには用意できないから、その商人さん達に少し待っててって言ってね」
「分かった。……りました」
■大坂 適塾
「御免候! 御免候!」
伊予大洲藩士の武田斐三郎は、藩主に願いでて、はるばる四国から適塾で学ぶためにやってきたのだ。
「おや、お客さんですか? どうぞこちらへ」
「忝い。されどそれがし、客ではないのです。天下の適塾で学ぶべく、四国は伊予大洲より参りました。武田斐三郎と申します。緒方洪庵先生はいらっしゃいますか」
斐三郎は元気に挨拶をするが、男は言う。
「洪庵は私です。入門はありがたく存じますが、残念でしたね」
洪庵は少しだけ困った顔をした。
「ええ! あなたが、洪庵先生ですか! ? これはとんだ失礼をいたしました」
「いえいえ、良いのですよ」
にこやかに答える洪庵に対して、斐三郎は不思議な顔をする。
「されど先生、なにゆえ残念なのです。もしや、それがしでは入門に値しないと? ではこれを! 我が殿よりいただいた紹介状にございます!」
真剣な眼差しで詰め寄る斐三郎を、洪庵はやさしく諭す。
「そうではありません。わが適塾は、学ぶ意思のある者は拒みません。……残念というのは、この適塾は閉じるゆえです」
「と、閉じるとは? 先生、もう適塾はなくなるのですか?」
また洪庵は笑みを浮かべて答える。
「……大阪では閉じますが、それは私が塾を、学びを止めるという事ではありません」
「仰っている意味がわかりかねますが……」
斐三郎はピンと来ていない。塾を閉めて、学びは止めない。
「私は長崎に行くのです。以前長崎に行った際、信じられないほど心を動かされました。その時は塾生も多数おり、私も塾を放って長崎に居続ける訳にもいきませんでしたが、ようやく落ち着きました」
洪庵いわく塾生に話し、塾を辞める者は辞め、洪庵に従って長崎に行く者は、そのままついて行くという風になったようだ。
「では、では……それがしは如何にすれば良いのですか?」
「それは、あなたが本当に学びたいのであれば、決まっているでしょう。大阪適塾はなくなりますが、『適塾』という学ぶ者たちの集まりは消えませぬ。私が長崎に持っていくのです」
「では……」
武田斐三郎、史実で後に五稜郭を設計、建設する男の長崎行きが決まった。
次回 第117話 (仮)『ゴムの実験と真田幸貫、そして加賀の大野弁吉』
-大村藩情報・開発経過-
■次郎
・海軍伝習所、陸軍調練所設立へ。(兵学の他、数学・理化学・国語漢文・オランダ語・英語)
・軍事偏重にならないよう、国際色豊かに、国内外情勢を学ぶ。(伝習所、調練所)
・京都~江戸各所でのロビー活動。
■精煉方
・電信機の距離延長研究。(コイル・継電器・絶縁体)……宇田川興斎、ブルーク・佐久間象山。
・電力、発電、蓄電、アーク灯……水力発電。……信之介・廉之助・隼人・東馬・村田蔵六・佐久間象山。
・既存砲の更なる安定化とペクサン砲の開発。……高島秋帆・賀来惟熊・村田蔵六・佐久間象山。
・造船所(ハルデス他)建設地の造成。……ハルデス他職人と学生・村田蔵六・佐久間象山。
・蒸気機関の性能向上と艦艇用(軍艦・漁船・輸送船)の研究。……ハルデスと久重と功山。
・製茶機の研究開発と製造……ハルデスと久重と功山・佐久間象山。
・写真機の研究開発。……俊之丞とブルーク・佐久間象山。
・ゴムの性質改善、品質向上研究と生成したゴムによるゴーグルの製作。……ブルークと適塾の四人・佐久間象山。
・ソルベイ法と石炭乾留によるアンモニア抽出の研究……ブルークと適塾の四人・佐久間象山。
・魚油のけん化(水素添加)の研究。……ブルークと適塾の四人・佐久間象山。
■五教館大学(賀来惟準・三綱。惟舒)。+ブルーク。
・石油精製方法……火災発生も、被害は少なく精製の研究を続ける。+佐久間象山。
・焼き玉エンジンの研究開発……+佐久間象山。
・缶詰製造法の機械化。(オランダ人技術者とともに)+佐久間象山。
■医学方(一之進、宗謙、敬作、俊之助、イネ)
・下水道の設計と工事を行い、公衆衛生を向上させる。……橋本勘五郎。
・新薬の研究開発、臨床。
・殺鼠剤
■産物方(お里、賀来惟熊)
・領内の鉱山の状況調査と鉱物の選別保管。
・石炭、油田の調査。
・松代藩に人を派遣し、採掘の準備に入る。(越後は価格交渉、相良油田はさらに調査)
・8万千800斤のお茶の追加受注。増産と仕入れ先の全国的な確保、機械化が課題。
・桑畑の増加と生糸の生産。
・魚油の精製(酸性白土、領内産出モンモリロン石)、販売。
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