第127話 『造船所と新型帆船。一斗缶の開発と一年の空白をどう使う?』(1850/9/14)  

 嘉永三年八月九日(1850/9/14)  

 一昨年に建造を開始した大規模造船ドックが完成した。しかし、来年の蒸気機関とそれを用いた工作機械が到着しなければ近代的な造船はできない。あと1年あるが、それまでこのドックは遊ぶ事になる。

 造船ドックの完成は予定として決まっていたとは言え、嬉しいニュースであった。そしてさらに嬉しいニュースとして、2,400石船が完成し、搭載する蒸気機関も試験運転に成功したのだ。

 史実にある帆船『健順丸』と同じサイズの360トン機帆船が完成し、実用化出来たことは大きい。佐賀藩が5年後に購入するスンビン号(観光丸)より若干小型であるが、それでも見劣りしない大きさの船だ。

 試運転も問題なく執り行われ、『昇龍丸』と名付けられた。

 昇龍丸は武装商船に改装可能・・・・な船である。もちろん、大船建造の禁が廃止されることを見越しての事だ。今は偽装して倉庫として使える様にしている。見る人が見ればわかるだろうが、そこは隠し通す腹づもりだろう。




<次郎左衛門>

 さて、昇龍丸は今のところは商船なので、艦尾には大村家の家紋を掲げよう。川棚型はどうしようか。大村家の家紋を掲げてはいるが、海軍艦艇なのだ。

 うーん。うーん。うーん……。

 どんだけ考えても軍艦旗の旭日旗しか思い浮かばない。ただ、ここで朝日をモチーフにした旭日旗を使っても問題ないだろう。史実では幕府軍が日章旗で倒幕軍(明治政府)が旭日旗だったけど、あんまり深くは考えないようにした。

 それに朝日を意匠にした旗は昔からある。

 特に九州地方の武家に好んで使われていて、龍造寺氏や草野氏の『十二日足ひあし紋』や、菊池氏の『八つ日足紋』なんかがあるんだ。旗に関しては、後で殿に相談しよう。

 それから俺は、蒸気船の開発当初から、船の使い方を考えていた。

 用途自体は・・・決まっている。川棚型は軍艦だが機帆船で、昇龍丸はなんちゃって商船だが、これも機帆船だ。洋式の小型船である捕鯨船でさえ、九州沿岸の藩には目撃されているかもしれない。

 これをおおっぴらに見せて良いものか、どうかという事だ。

 幕府に許可をとるか? いや、そもそも禁を犯している訳ではない。川棚型にしたってそうだ。許可を求めれば、逆に怪しまれないだろうか?

 どう考えても、450石の帆船はともかく、蒸気船など見たこともない。この日本にはまだ存在もせず、来航してもいないのだ。これが幕府や他の藩に知られたらどうなるか?

 知れば幕府は、間違いなく警戒心をいだくだろう……。いや、あれはペリーが高圧的な態度で来たからそうなったのか? 幕府は軍艦や大砲をオランダから輸入する計画が一昨年頓挫して、技術者の招聘しょうへいに切り替えた。

 今年到着しているはずだ。

 しかし、大砲は台場に据えるために仕方が無いとはいえ、造船技術者や海軍の教官を招いたとして、その金があるのだろうか? 台場の建造だけで精一杯ではないのか?

 帆船としての川棚型はすでに目付に見られた。
 
 大村藩が洋式帆船をつくる技術を持っていると発覚した事になる。今は刺激しないように何も言ってきていないが、今後は軍艦を献上せよとか、建造の技術供与や資金供与を言ってくるかもしれない。

 しかも川棚型には鉄製の大砲を搭載しているのだ。その技術も供与せよと言ってくるだろう。

 今、それを言ってこないのは、まだ大丈夫と余裕ぶっこいているからか? いずれにしても大村藩としてはそれでいいが、蒸気船となったら話は別だ。

 見たことがないので信じられないかもしれないが、オランダ風説書には中国近海でイギリス国籍の蒸気船を見かけたという記述もある。弘化年間から嘉永にかけて、その数も増えている。

 蒸気船という存在・・は、間違いなく知っているはずだ。

 そこで、俺たちが蒸気船を持っていると知ったら?

 でも川棚型はともかく、昇龍丸やこれから建造する船を商用利用しないのはもったいないし、採算をとらなければならない。まあいいや、どうとでもなれ!

 という訳にはいかない。




 そこで俺は決断した。半年前の川棚型の蒸気機関搭載後の試運転の時だ。

 決断した後に殿に相談し、裁可を得たのだ。実はこれに先行して老朽化した御座船の建造を進めていたんだけど、蒸気機関が開発された時の事を考えて、搭載できるように設計していた。

 そして見事に試運転は成功したのだ。

 昇龍丸と同じく殿が座乗する御座船『飛龍丸』(490石・73.5トン)も完成したのだが、こちらは川棚型と同型(蒸気機関搭載用に改良)だ。

 船体は朱塗りである。いわゆる大名が乗る御座船の絢爛けんらん豪華さはないが、シンプルながらも華麗さを備え、各所に彫刻や装飾が施されている。

 蒸気機関の御座船への搭載はリスクが高かったが、それが即、藩の存亡に関わる事ではない。なにもやましい事はしていないのだ。

 技術は隠していても、遅かれ早かれ漏れる。秘密にしておきたかったけど、お茶の輸送や捕鯨船の機帆船化、コスト削減と利益向上には、どうしても必要だと考えたんだ。

 今年の江戸参府は機帆御座船『飛龍丸』を使う事になる。安政三年(1856年)に建造されるはずの船(艦型は全く違うが)が、今完成したのだ。




 ■精錬方

「分厚い」

「分厚うござるな」 

「なんとか薄くできませんかね?」

 佐久間象山の言葉に答えるのは、写真機の製造が一段落した上野俊之丞と、杉亨二である。二人はそれぞれの写真技術を後進の
 学生に教え、自らは新しい学びを求めてここにいたのだ。

「一石(ドラム)缶と一斗缶、そしてこの缶詰だが、素材と大きさは違えど、鉄板を押し延ばして作る事に間違いはない。されど和蘭から輸入したこの圧延機は一分(3mm)が限界だ」

 象山が淡々と話す。

「これでは一番大きな一石缶ならまだしも、缶詰があれだけ厚く、ノミで開けねばならぬというのもわかる。されど我らの求める薄さには程遠いですな。御家老様や信之介先生が仰せの『缶切り』なるものでも難しいかと」

 俊之丞が缶詰を手に取って、顔をしかめてため息混じりに答えた。その脇には、缶詰の山がある。

「このままでは無理ですね。蒸気機関を用いるのが盛んな和蘭で、蒸気動力を使っていないのも気になります。蒸気を使えばより強き力で圧延でき、薄い鉄板の製造も能うのではありませんか?」

 ※1862年に蒸気機関がロール圧延機の動力として導入される。

 亨二が慎重に言葉を選んで答えた。

「例えば、二段圧延機の圧延回数を増やしたり、焼鈍の工程を取り入れることで、さらに薄く延ばせるかもしれん」

 象山がゆっくりとそれに答えた。亨二はさらにそれに付け加える。

「それに、ロールの径を太くしたり細くしたり、今ある物の様々な値を変えてみるのもよいかもしれません。我らは写真の研究でもそれが大いに役立ちました。そうですよね。俊之丞様」

「うむ。まずは亨二の言うとおり、我らで様々な値や順序を変えて試してみましょう。試行錯誤しながらその結果を記し、それに基づいて何か改良ができるのか、それとも全く新しい物を造るほかないのかを判じてはと存じます。蒸気機関の力については、すぐに導入を検討しましょう」

 俊之丞は缶詰を触りコンコンと指で叩いて、結論づけるように言った。

「その通りだ。圧延機にしてもプレス機にしても、道は長いが諦めずに進もうぞ」

「「はい」」




<次郎左衛門>

 遊ばせとくのもったいないから、二番艦造ろう。




 次回 第128話 (仮)『製茶機と石油精製』

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