第158話 『大村純顕の帰国と上海のペリー』

 嘉永六年四月七日(1853/5/14)  京都 鷹司邸

「幸経様、その後のご容態については逐一報せを受けておりますが、お変わりありませぬか?」

 そう言って笑顔で接しているのは、医学方総奉行の一之進である。

「うむ。お陰で気分もよく、日中に目まいがしたり倒れる事がなくなった。そちのお陰じゃ」

 幸経はそう言って笑顔で一之進に返事をしているが、確かに初めて診察したときより顔色が良いようである。

「それは良うございました。然りとて根気の要る病にて、油断は禁物にございます。以後も食事に気をつけ、しかと寝て心を安んじ、無理をなさいませんように」

「わかっておるわかっておる。一之進は案じ過ぎなのだ」

 ははははは、と幸経は笑い、万座にも笑みが満ちた。

「一之進殿、洪庵殿、俊達殿、そして何より次郎左衛門殿。岩倉の紹介で聞いた時はどうかと思うたが、本当に良くなっている。この政通、感謝に堪えぬ」

 関白鷹司政通は、次郎と医師3人に対して心の底から礼を言った。九条幸経の容態は良くなっていたのだ。しかし一之進が未来から来た医者だとしても、今回は何か特別な事をしたわけではない。

 食事療法と生活態度の見直しくらいだ。漢方薬も処方したが、それは緒方洪庵や長与俊達の功績である。去年の6月に診察して以降、顔色や体調が良くなり、鼻血や立ちくらみなどの貧血の症状もなくなっている。

 正直なところ、これまで治療を怠っていたのか、それとも費用がかかるから受けていなかったのか? あるいはかかった医者がやぶ医者だったのか?




「一之進、どうなんだ幸経様の容態は?」

 次郎は鷹司邸を出てから一之進に病状を聞く。政治的な意図はない。心底心配しての質問だ。九条幸経は、なんだか人なつっこくて、ほっとけない感じの好かれるタイプの人間なのだ。

「わからん。薬もなければ、それこそ検査機器もないからな。ただ、食事療法で症状がよくなっているなら、白血病の可能性は低いかもしれない。貧血と血小板の減少だけの軽度の再生不良性出血なら……あとは単純な鉄欠乏性貧血なら何とかなるが、今はまだ何ともいえない。病名がわかったとしても、治療法がない」

 悲痛な面持ちの一之進だが、次郎は告げる。

「お前はできるだけの事をやっている。お前が出来ないなら、この世の誰も出来やしないよ。それに、現に良くなっているじゃないか。今はそれを喜んで、続けるしかないよ」

 ちなみに、以前一之進が診断した洪庵は何の問題も無く、健康である。洪庵もまた一之進から食事療法と適度な運動、そして十分な睡眠を命じられ、過度のストレスを禁じられていた。

 洪庵の病状を悪化させたのは、幕府に出仕後の政争におけるストレスではないかと言われている。ともあれ大村藩にいる以上、そういう余計なストレスはかからない。




 ■京都大村藩邸

「次郎よ、出迎え大儀である」

 江戸からの帰国途中に定例通り京都藩邸に寄った純顕は、次郎と3人に挨拶をした。

「殿、如何いかがでございましたか? 公儀は交渉の際の同席を許されましたか?」

 次郎はそう純顕に尋ねるが、皮肉っぽい笑いを浮かべて純顕は答える。

「次郎よ、わかっておろう。公儀は一度決めた事はそう簡単には覆さぬ。もう決まった事だと一蹴されたよ」

 予想できた結末である。

 老中首座の阿部正弘からの案で、長崎奉行を通してペリー来航における対応を聞いておきながら、ほぼその通りの対応をするくせに、こちらの要望は聞かないのだ。

 沽券こけんとか面子の問題なのだろう。

「然様でございましたか。して、江戸表への蒸気船の入り船については如何でしたか?」

「うむ。それは、これも決まるまで時がかかったようだが、ようやくお許しがでたぞ」

「それはようございました。もとより交渉役は断られると思っておりましたが、船での参府が良いとなれば、やりようもございます」

 悪代官、次郎左衛門の顔がニヤリと悪巧みの顔に変わったのを見て、純顕がさっそく聞いてくる。

「次郎よ、お主また悪い顔になっておるぞ。此度こたびは何を考えているのだ?」

「は……。実は……」




 ■上海

「ふははははは! 愉快愉快! ようやく出港して日本へ向かえるな」

 夕食の席でステーキを食べ、ワインを飲みながら豪快に笑っているのは、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。
 
 昨年1852年11月24日にノーフォークを出港し、大西洋を渡って喜望峰を回り、インド洋を経て5月4日に上海へ着いていた。

「全くですな。途中琉球という日本よりも小さな島国を通りますが、占領もやむなしとの事。東洋の蛮国など、暇つぶし程度でしょう」

 そう答えるのは東インド艦隊旗艦サスケハナ号艦長の、フランクリン・ブキャナン中佐である。

「これまで何年も、何十年もかかったと言うが、初めからこうしておけば良かったのだ。大砲は青銅で、銃はいまだにマッチロックだと言うではないか。船は100トンにも満たない小舟ばかりで、外洋を航行出来るレベルではない。蒸気船などマジックだと思うだろうよ」

 がはははは! とまた豪快に笑うと、ブキャナンも笑う。二人の目には清に力で迫って条約を勝ち取ったように、日本に対しても簡単に条約締結ができると映っていたのだった。




 次回 第159話 (仮)『琉球』

コメント

タイトルとURLをコピーしました