第200話 『功山と宇和島藩』

 安政三年五月十四日(1856/6/16) 伊予 宇和島城

 伊予宇和島藩主伊達宗城は幕末の四賢侯と呼ばれ、松平春嶽・山内容堂・島津斉彬とともに積極的に幕政に参加した事で有名であるが、今世では少し違う。

 史実と同じように阿部正弘に幕政の改革を訴えてはいたが、大村藩主の純顕や次郎の陰に隠れて、他の藩主ともども、その存在感は色あせていたのだ。

 宗城自身は軍制改革、強兵策に重点を置いた藩政を執り行い、同時にその経済的裏付けとなる殖産興業にも大いに力を注いだ。

 昨年安政二年(1855年)には中島田宮に物産学研究を命じ、今年に入って物産方役所を開設して物産開発、製造、販売を行わせて領内開発の機関としている。

「福岡から招いた技師は如何いかがだ? わが領内に石炭を産する山はあるのだろうか?」

「は、それに関しましてはいましばらく時をいただきたいとの事でございます」

「ふむ、樟脳しょうのうや陶器に藍玉、特に櫨蝋はぜろうなどは金になっておるからな。何をするにも金が要る。……そうだ、時に功山はいかがしておる? 大村家中では蒸気罐をつくり、船も自前で造っておると聞く。わが家中で蒸気船も欲しいゆえ、そろそろ戻しては如何だ?」

「は、ではそのように文を送ります」




 ■大村藩庁

「次郎様、伊予宇和島の伊達家中より、功山殿を戻してはくれまいか、と書状が届いております」

 助三郎が藩庁からの伝令を次郎に伝えた。

「何? うーむ、もうそろそろと考えてはいたが、やっぱりきたか」

 技術者はなるべく藩内で抱えておきたい、というのが次郎の本音である。

 しかし功山を招聘しょうへいした際に、大村に永住の許可はもらっていない。あくまで本人の希望を尊重しての事だが、それでも功山は家族の事を考え、一緒に移住している。

 ここでまた宇和島に戻るとなれば大変だろう。功山は還暦前である。

 蒸気機関の開発状況から考えれば、一応の目処はついた。ついた、というより後は素材の問題となり、新しい転炉の開発を待って、鋼鉄を用いた蒸気機関の開発・製造を行う予定である。

 現状の錬鉄(パドル鉄)を用いた製造法では大量に鉄板を造ることが出来ないので、リベット打ちが必要である。そのためこれ以上の高圧に耐えうる機関の製造は、厳しいのが現状だったのだ。




「功山殿、宇和島の伊達様より帰郷の命がきておりますが、如何されますか。我が家中としては功山殿ほどの技術者を戻すのは心苦しいですが、なにぶんもともとは宇和島の方。某が勝手に決める事はできませぬゆえ、本意をお伺いしたい」

 次郎はゆっくりと功山を見、本心を語った。

「わしのような一介の金物師を見いだし、斯様かような処遇にて召し抱えていただいたご恩を、忘れたことはありませぬ。また、家族の引越の費用も出していただき、生活の心配もなく暮らせております。家族がこのまま、つつがなく暮らせるのならば御家老様のお考えに従います」

 さて、どうしたものか。

 次郎は考えた。ここで功山を帰さないのも角が立つ。……そこで功山の弟子と共に宇和島に1~2年帰らせ、宇和島に技術者の芽が育った後に、大村に帰ってきてもらうことにしたのだ。

 転炉が完成したとしても、それが即蒸気機関の完成ではない。そこから鋼鉄を使った新しい蒸気機関の開発が始まるのだ。有能な技術者は多いに越したことはない。

 次世代の技術者も育っては居るが、その経験に裏打ちされた技能は、得がたい物である。




「では左内殿。越前福井、松平の御家中でも蒸気船を所望されておるのであろうか?」

「は、我が殿におかれましては、西洋の技術に深い関心をお持ちです。特に海防の重きを認識され、艦隊の整備を急務とお考えのようにございますれば、西洋式の帆船ならびに蒸気船を所望し、大村御家中の如き海軍を創設せんと考えて居られます」

 海軍か……。

 言うは易し行うは難しである。

 まず、操船できる人材を育成しなければならない。最低限それは必要であるが、自前で船を製造、整備するとなれば、その人材も育成の必要があり、大がかりな造船所や設備も必要である。

 一朝一夕にはいかないのだ。

「では左内殿、まず船を動かすにあたっては、御家中の者が我が海軍兵学校で学んでいるゆえ、そうであるな……四百から五百石(100トン未満)積みの船を動かすならば、事足りるでしょう。船は……早急に居るとなれば、我が家中で荷船に使っているものがあるゆえ、お譲りすることも能うでしょう。然りながら蒸気船となればそうはいきませぬ」

 左内は理解している。

「御家老様、どうか左内とお呼びください」

「ははは、然様か。では俺の事も次郎様で良い。……さて、蒸気船を扱うならば造るか買わねばならぬが、自力で全てを(船体はもちろん蒸気機関も全て)一から造ろうと考えているなら、十年、いや、最低でも五年はかかろう。早くても、じゃ」

「それは、この大村の御家中の事様ことざま(状況)を見るに、おおよそあらまして(予想して)おりました。然れば、まずは能う事より始めたく存じます」

 次郎は操船の人員育成と船の手配を左内が希望している事を感じ取った。

「今、兵学校で学んでいる御家中の者達は、本来ならばあと一年ないし二年は学ばねばならない。然れど操船実習は何度もこなしておる故、船を操るだけならば能うであろう。それならば我が海軍の者を数名選び、教官として同乗させた上で越前まで回航し、彼の地で習熟させる事も能う。船は……帆船となるが、三千両ほどかかろうか」

かたじけのう存じます。然ればすぐに国許へ文を送り、我が殿の意向をお伺いした上で、お返事したく存じます」

「うむ」




 越前福井藩も、遅ればせながら海軍(と呼べるかどうかわからないが)創設へ向けて動き出したのである。




 次回 第201話 (仮)『山内容堂とジョン万次郎、坂本龍馬、武市瑞山』

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