安政四年六月十七日(1857/8/6)
瓢箪鯰とあだ名され、譜代や幕閣からは陰口をたたかれた阿部正弘が、没した。開国派と攘夷派の調整役となり、批判はありながらも幕府の在り方と存続、そして日本の未来を考えた有能な政治家であったとの評価もある。
これを契機に幕府は調整能力を著しく失い、激動の10年へと向かうのである。……のだろうか。
■京都
「では岩倉様、関白様のお許しもいただき、烏丸通に病院を建てること、よろしゅうございますか」
「うむ。関白様も、異論はあらしゃいません。むろん麻呂も、同じでありましゃる。典薬寮の典医どもは、異国の医術をまじないや妖術のように考えておる者もおりましゃるが、然様な事は些末な事。治るか治らぬか、病状が良くなるか、変わらぬか、はたまた悪くなるか……。それだけでありましゃる。そうであろう?」
次郎は前々から考えていた京都に病院を設立する計画を実行に移した。もちろん一之進監修のもとだ。院長には緒方洪庵を据えた。
洪庵は一之進のもとでもっと学びたい、という気持ちがあったようだが、後進の育成も重要な役目である。
長与俊達が存命なら俊達が就任する可能性もあったが、漢方と蘭学の両方の智見と技術を持ち、信望もある人物として、洪庵が適任だったのである。
もともと烏丸通には、九条幸経を治療するための医師団の宿舎があった。
その宿舎を拡張して病院にしようと計画したのである。史実で考えるならあと2年で幸経は没する。なんとか防ぎたい一之進であったが、いまだ正確な病名や治療法は確立できないでいた。
近代医学の知識というよりも、漢方の領域である食事療法や行動制限などで病状が好転していたのだ。それに、そうならないように次郎が奔走しているわけだが、史実では京都は戦乱に見舞われる。
大勢の死傷者がでるのだ。
そのための対策でもあった。敷地は余裕を持って周囲を道で囲んで、火災の影響で引火しないようなつくりにしようと考えている。
■長崎 オランダ商館
「ハリス殿、本当にこれから下田に向かわれるおつもりか? 清国では戦争がはじまっているのは知っているが、その終息を待ってからでも遅くはないのではありませんか?」
いったんは上海へ向かったアメリカ艦隊とハリスであったが、アメリカはアジアに根拠地をもっていない。イギリスは周知の通りであり、オランダには蘭領インドシナがある。
フランスはすでに、いわゆる仏領インドシナの一部を占領していたのだ。ここでも、歴史が変わっている。
アメリカは、といえば、フィリピンはまだスペインの統治下である。
中国との交易はあったが、周辺に根拠地を築くには至っていないのだ。数年後に始まる南北戦争のおかげで、アメリカがフィリピンを統治するのは米西(スペイン)戦争後のパリ条約においてである。
「終息とは……。一体いつになると言うのですか。1年ですか、2年ですか? そんなに待つことなどできないことは、外交官である貴殿にはおわかりでしょう?」
アロー戦争が勃発したためにアメリカ艦隊とハリスは長崎へ向かい、戦争終結までに将軍と謁見して親書を渡し、そして居住権を認めさせようというのだろう。
クルティウスはため息をついては思案に暮れる。ハリスの性急さは理解できるものの、現在の国際情勢を考えると、その行動が日本にどのような影響を与えるか予測がつかない。
「わかりました、ハリス殿。あなたの立場も理解できます。ただ、今は日本にとって非常に微妙な時期です。権力者であるMr.阿部の死去により、幕府内部の力関係が変化しています。拙速な行動は、かえって日本側の反発を招くかもしれません」
ハリスは椅子から立ち上がり、クルティウスに歩み寄る。その表情には焦りと決意が混在している。
「その通りです。だからこそ、今がチャンスなのです。幕府が新しい方針を決める前に、アメリカとの関係を確立させる必要があります」
クルティウスはハリスの決意に満ちた表情を見つめながら、しばらく沈黙した。オランダ商館の窓から差し込む陽光が、二人の間に長い影を落としている。
「ハリス殿、あなたの熱意は十分に理解しました」
この時点でオランダは、各国に比べて一歩も二歩も先をいっている。自国が逆の立場なら……その思いがクルティウスの頭をよぎる。
「それならば私からは何も言う事はありません」
クルティウスは黙ってハリスの言葉に耳を傾けた。
■五教館開明大学附属病院
「また下田にいくのか?」
「ああ、予想通りだが、将軍謁見と親書、それから居住権が目的だ」
定期検診を終えた次郎は、一之進にそう言ってため息をつく。
「本当はオレはあまり政治に口を出したくはないんだが、ほら? 歴史で習っただろ? 領事裁判権とか関税とか」
「馬鹿にするな。そのくらいは知っている」
冗談交じりのラリーが続く。笑いながら会話をする2人だが、次郎は続けた。
「多分まだ、通商の前段階だから問題はないと思うんだけど、相手はあのやり手のハリスだ。何が起こるか分からんし、阿部さんが死んで混乱してると思うからさ……」
あのやり手の? と一之進は思った。まるでその人となりまで知っているような口ぶりだ。まあ歴史オタクの次郎だから、と妙に納得して話を続ける。
「外国人がこの日本にいる。それも武蔵の隣の伊豆の下田にだ。長崎ならともかく、それを生理的に受けつけないって人も多いだろうし、徐々に外堀を埋めていって日本人との交流が始まれば、キリスト教の布教とか、いろんな問題がからんでくる。人数が増えてくれば、予想外の事件も起きかねないからな」
予想外……。
一之進は言葉につまった。
「本当にオレは行かなくてもいいのか?」
「ああ、今回は殿も修理様もいかないからな。心配はない」
あの襲撃が次郎を狙ったものでないなら、そうかもしれない。
「じゃあせめて、警備の兵は増やせよ。それから精|煉《れん》方がつくった服を着て、特製の籠で移動するんだぞ。絶対にだ」
「ああ、わかった」
次回 第214話 (仮)『咸臨丸とハリスの江戸出府』
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