第215話 『居住権と為替レート』

 安政四年九月二十三日(1857/11/9) 下田 玉泉寺

 佐久間象山が江戸ではなく大村で、河井継之助・橋本左内・岡見清熙・山本覚馬・坂本龍馬などの維新の志士らに影響を与えていた頃、伊豆国下田ではハリスと幕閣との間で丁々発止の交渉が行われていた。

 前回の長崎開港に加えて居住権の許可、江戸出府、為替レートの設定などがあったのだが、アロー戦争でイギリスとフランスが中国(清国)と戦っている間に、アメリカと条約を結んだ方がいいとの結論に達していたのだ。

 このあたりは史実と変わらない。

 居住権に関しては、量の如何いかんを問わず3日以上補給に時間がかかった場合は、居住を許可するという条文があった。
 
 それがためにアメリカ側は過大な要求を日本側に行い、アラを探して、結果4日以上を要したという既成事実ができあがったのだ。

 しかしこれは、日本側も次郎もある程度予測でできた事である。ただ時間稼ぎのために設けた条文に過ぎなかったのだ。その結果、下田と箱館、そして長崎に領事館を設置する運びとなった。

 前回の4か国交渉と同じく、全権は井上信濃守清直と中村出羽守時万ときつむである。




「ではハリス殿、我らとしては一ドルを一分として比率を決めたいが、いかがでござろうか?」

 この言葉を聞いて、ハリスの眉が僅かに動いた。清直はそれを見逃さず、さらに説明を続ける。

「我が国の本位貨幣は金であり、一分銀は極印により通用する定位貨幣でございます。金の価格を基準とすれば、この交換比率が適切であると考えております」

 ハリスは腕を組み、慎重に答えた。

「しかし、それは現在の国際的な金銀比価とは大きく異なりますね」

 清直は落ち着いた様子で応じた。

「ハリス殿、我々の計算では、八匁八分(8.8匁)の量目の二十弗金貨は一匁当たり銀十九匁、すなわち一枚あたり銀一六七匁二分(167.2匁)と見なされます。これを一弗当たりに換算すると、銀八匁三分六厘(8.36匁)となります」

 中村出羽守時万が補足した。

「また一弗銀貨、つまり洋銀は地金と見なされ、純銀量六匁二分に対し、我が国の通用銀十六匁と評価されます。これは一両の約四分の一であることから、一弗は銀一分という比が導き出されるのです」

 ははははは! とハリスは大笑いをした。馬鹿にするという意味あいは含まれておらず、論外だ、という意味の笑いである。

「それでは実質的に日本の通貨が過大評価されることになりませんか? 国際市場での取引では通用しません」

 清直は静かにハリスの発言に反論する。

「ハリス殿、我らはこの案が貴国らの間における慣行とは異なることは承知しております。然れど、我が国は貴国等と通商を行っている訳ではありませぬ。三年前に結んだ和親条約の附録では、金貨一弗を通用銀八匁三分六厘と既に決められており、なんら障りなく薪や食料の売買が行われたでしょう?」

 清直の反論を聞いて、ハリスは少し表情を和らげた。しかし、彼の目には依然として懸念の色が残っている。

「確かに、和親条約の附録での取り決めは存在します。しかし清直殿、それは限定的な取引にすぎません。今我々が議論しているのは、より広範囲な通商関係の構築についてです」

 ハリスは一息つき、さらに続ける。

「貴国が国際市場に本格的に参入するならば、この比率では深刻な問題が生じるでしょう。金の国外流出が避けられなくなります」

 お待ちください、と時万がハリスを遮った。

 次郎は横で少しだけ笑顔を浮かべながら、じっくりと話の経緯を見守っている。

「いつ、我が国が国際市場に参入すると言いましたか? それがしは無論の事、幕閣の誰も、然様な事は望んでおりませぬぞ」

 嘘である。

 好むと好まざるとに関わらず、開国して交易は必須であり、日本を富国強兵させるためには避けては通れない道である。しかし、この問題については慎重に議論が必要なため、あえてそう言ったのだ。




 ハリスは時万の言葉に一瞬戸惑いの表情を見せた。慎重に言葉を選びながら答える。

「時万殿、私はどうやら……いや、お互いに見解の相違があるようですね。確かに、現時点ではそうでしょう。しかし和親条約を結び、今このような交渉の場を持っているということは、貴国が何らかの形で、今後の国際関係を築こうとしているのではないでしょうか?」

 時万は冷静に応じた。

「ハリス殿、我々が望んでいるのは、あくまでも限定的な関係です。和親条約で定められた範囲内での交流を超えるつもりは、今のところありません」

 清直がさらに補足する。

「我々の目的は、単に友好的な関係を維持することです。全面的な開国や大規模な通商は、現時点では考えていません」

「……なるほど。そうですか……。しかし、将来的には、お考えではないのですか? おそらく、あと1~2年で清国での戦争も終わるでしょう。そうすれば、イギリスやフランスが同じように、いや、もっと厳しい条件で交渉を迫ってくるかもしれませんよ」

 事実である。

 幕府はそうなる前に、アメリカと友好的な関係を築いておきたいのだ。しかし、為替レートの件を簡単に認めれば金が大量に流出し、国内経済は打撃をうけて急激な物価高となるのだ。




「次郎殿、如何いかにすべきか。見聞役としての貴殿のお考えを伺いたい」

 清直は小休憩の間、次郎へ意見を求めた。時万も同じように次郎の顔をみる。幕閣は次郎をはじめとした大村藩の面々を苦々しくも必要としていたのに対し、現場での評価は相当高かったのだ。

「然様ですな。清国における戦争は……おそらくあと二、三年のうちには終わるでしょう。然すれば彼の国の者達の目が日本に向くのは必定にて、新たなる条約を亜墨利加と結ぶ事には同意にござる。しかして……」

 清直と時万はじっと次郎を見ている。

「ハリス殿が言うような比で結べば、洋銀を一分銀に変え、それをさらに小判に変えて、国外に持ち出して洋銀に変えれば、それだけで三倍となり申す。断じて許してはなりませぬ。然りながらこのままでは議論はまとまらず、時ばかりが過ぎます故、ここはひとつ……長崎にて、限りをもって交易を許すのは如何いかがでござろうか」

 次郎の提案に、清直と時万は慎重に考え込んだ。

 長崎を限定した貿易の場とすることで、国際的な圧力を最小限に抑えつつも、外国との接触を続けることができる。しかし、それにはリスクも伴う。

 時万が口を開いた。

「次郎殿の案には一理ござろうが、それでも交換比の問題の解決にはならぬのではないでしょうか?」

 長崎では、と次郎は言う。

「和蘭の通貨である一ギルダーは銀六匁二分五厘でやっております。なんら問題はありませぬ。量目で考えても、我らの申し出、少なくとも一両四弗とまではいかなくとも、三弗から四弗の間でよいかと。まずは和蘭人とのやり取りを元に亜墨利加人に見せればよいかと存じます。今、和蘭との間に問題は起こっておりませぬゆえ」

「なるほど、然れどハリス殿が応じますかどうか」

「彼等の目的は通商にございますれば、銭の交換の比は後々交渉すれば良いことにござる。外交目的としても、交換の比よりも我が国との交易を認めさせた功績が大きいでしょう」

「わかりました。ではその旨ハリス殿へ伝え、問題なくば御老中様方へお知らせいたすとしましょう」

 清直と時万は納得し、ハリスとの交渉を再開した。




 為替レートの交渉から端を発した長崎での限定的な交易は、長崎の開港を半年ほど前倒しする形で協議されるされる事となったのだ。




 次回 第216話 (仮)『江戸出府と将軍継嗣問題』

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